現象メディア・ポイントの閉鎖と開放

現象メディア・ポイントの閉鎖と開放


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


今は、簡単に述べるに留めたい。

もっとも、ここは、実に微妙、複雑な問題である。

結局、これは、端的にルネサンスと近代の問題である。

ルネサンスにおいては、明らかに、現象メディア・ポイントは開放系であった。しかるに、近代主義となると閉鎖系になったと考えられる。

これは、思想史・文化史的には、コスモスの崩壊を意味する。


とまれ、連続的同一性中心主義によって、閉鎖系が生じたと言える。しかしながら、問題が単純ではないのは、連続的志向とは、超越エネルギーの発現であることにある。

つまり、近代的連続主義とは、裏側に超越性があるのである。超越性の裏返しとしての近代的連続主義である。(ここで、D.H.ロレンスが、光は背を向けている言った言葉を想起する。確かに、超越性は背を向けているのである。)

これをメディア・ポイントの「力学」としてどう説明するのか。

これは、端的に、即非性が連続的に同一性化したことを意味するだろう。本来、分離しているものが、連続化して、同一性化するのである。iと-iが連続化して同一性となるのである。iが-iとなり、-iがiとなるのである。即ち、相互転換である。これは、半回転ではないのか。i*i^2⇒-i、(-i) *i^2⇒iではないのか。

「私」が他者となったり、他者が「私」となったりする。

この連続的接合において、本来の即非エネルギーは倒錯化したものとなっているだろう。

端的に言えば、超越エネルギーが連続的同一性のフォースになっているのだろう。

しかしながら、現象メディア・ポイント(実数軸のメディア・ポイント)において、完全に超越性が閉じられて、閉鎖系になっているのだろうかという疑問が浮かぶ。

結局、現象メディア・ポイントと言えども、メディア・ポイントであり、超越メディア・ポイントに、共振しているのである。即非態である。

つまり、言い換えると、現象メディア・ポイント(以下、現象mepo)には、間隙(空、穴、亀裂、等)があるのである。

差異である。

これを埋めるように、連続的志向が作用するのである。だから、この差異(間隙、空、穴、亀裂、等)を連続的同一性で埋めるのである。

一種糊塗するのである。

連続的同一性の糊塗である。上塗りである。

滑らかに見せるのである。

しかしながら、実際は、差異が存しているのである。ここで、自己分裂・自己矛盾が生起するのである。

連続的同一性は自我であり、差異が本来の自己の潜在性である。

だから、現象mepoの連続的志向性において、表層(自我・連続的同一性)は、閉鎖系であるが、深層(自己・差異)は開放系である。この「絶対矛盾的自己同一」が真相である。

だから、連続的志向性によって、近代主義は閉鎖系になったというのは、半面の真理に過ぎない。

やはり、開放系が裏面にあるのである。

連続的現象性の裏側に超越性が存しているのである。

閉鎖系と開放系の絶対矛盾があるのである。

これは病理的に言えば、パラノイアと「分裂症」との併存であろう。(こんにち言われる自己愛性人格障害はこのことだろう。)

この連続性の「狂気」は、自我閉塞性とそれを否定する超越的開放性との矛盾的非合理衝動によって起こるのではないだろうか。

つまり、連続的同一性と不連続的差異との矛盾的非合理的衝動である。

つまり、本来、光である不連続的差異が、闇になっているのである。

とまれ、この衝突が狂気である。

近代的世界の狂気はこれだと考えられる。

いわば、自我超越神的狂気である。

視点を変えると、連続的同一性とは自己陶酔である。

では、なぜ、自己陶酔となるのか。

ここには、人間存在の核心の一つがあるだろう。

また、イデア論の本質の一つがあるだろう。

思うに、連続的志向性、連続的同一性とは、自己投影作用であろう。自己であるiを他者-iに投影して、他者を同一性化するのである。

自己投射である。自己放射である。

これは、いわば、自己同一性の作用であろう。

自己再帰的作用であろう。

self-reflectionである。自己反射である。

鏡像反射である。

なぜ、これが起きるのだろう。

思うに、ここには、「光」があるからだろう。自己の光である。これが、他者に投射されるのではないだろうか。

そして、この自己光によって、照らされた他者を見て、自己陶酔、自己栄華化、自己盲目化、自己瞞着化すると言えるのではないだろうか。

己の光の反射に酔うのである。

これが、自我である。

「光」による盲目、無明である。

「闇」である他者が、見えないのである。

盲目の「光」である。

これが、連続的同一性の現象界である。

しかし、メディア・ポイントにおいて、超越性が作用しているのである。これが、連続的同一性=自我に対して、いわば、無意識的に作用するのである。

この超越性の作用に対して、自我は、言わば、抑圧的な態度を取るのである。そう、自己投影は暴力なのである。無意識的な超越性の作用に対して、反動的なのである。これは、連続的同一性が超越的差異に対する暴力である。

超越的差異が一つの事象であるのだから、この連続的同一性の暴力は、不合理であり、狂気的であると言えよう。

つまり、存在しているものを否定するという、いわば、反真理的態度である。

真理に忠実な態度を科学的というなら、これは、反科学的態度である。

連続的同一性=自我は、自己同一性から、超越的差異=他者を否定・抑圧・排除するのである。

しかし、これは、真理から言うと、自己否定であるから、非合理主義なのである。

自己分裂である。自己病態である。

超越的差異が「神」であるのに、これを悪と見て、否定するのである。狂態である。

近代的自我の倒錯性である。

結局、不幸な様態なのである、連続的同一性=自我とは。

閉鎖系を志向しているので、開放系を否定して、倒錯となっているのである。

これで、本件を終えたこととしたい。後で再考したい。