なぜ、木や植物は、一般に、垂直に上昇するのか:地の引力と天の引力

なぜ、木や植物は、一般に、垂直に上昇するのか:地の引力と天の引力:連続的同一性と特異性共振回帰


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


この問題は、ある意味で簡単であり、また、別の意味で難しい。

ここでも、直観で言おう。

垂直に上昇するということは、根源へと回帰することである。とりわけ、螺旋的に回帰することだと思う。

これは、原点への回帰であり、死への回帰である。

では、なぜ、原点へと回帰するのか。

動物で言えば、帰巣本能であろう。

そう、アルベール・カミュが、郷愁と言っていた。いい言葉だ。(思うに、アルベール・カミュの説いた不条理とは、差異である。)

直観では、そこには、引力があるのである。

重力は確かに、鉛直方向に向かうが、重力と反対の引力である。

単純に言えば、地の引力に対する、天の引力である。

そう、天の引力である。

直観では、これは、脱現象化の志向性である。

つまり、地の引力が現象化の志向性であるのに対して、これは、対称的な志向性である。

ここで、思考実験であるが、

i*-(-i)⇒-1、即ち、連続的同一性化を現象化とすれば、

i*(-i)⇒+1、即ち、差異的同一性が脱現象化ではないだろうか。

そうならば、植物は、木や蔓植物は、差異的同一性を形成しているということになるだろう。

この問題は置いておくが、ひとこと言うと、動物は一般に連続的同一性で、植物は差異的同一性のように思える。水平志向と垂直志向ということである。

⇒+1であるが、これは、メディア・ポイントmepoにおけるメディア共鳴を意味するだろう。つまり、超越的メディア・ポイントと現象的メディア・ポイントとの共鳴である。

つまり、差異であり、且つ、同一性であるということである。即非共振性である。

このメディア共鳴力・共振力・共感力が、天の引力、垂直への上昇力ではないのか。

つまり、このメディア共鳴において、現象界と超越界とが共振する。つまり、引き合うということではないのか。この引き付けが、天の引力ではないのか。

逆に言うと、現象化とは、メディア・ポイントの共鳴が否定されて、連続的同一性化が発生する結果、生起するということだろう。ガウス平面で言えば、実数軸の左辺傾斜である。

だから、ここで言えることは、超越界における原差異共振・原即非性があり、それから、連続的同一性の現象化が発生する。そして、その後、メディア・ポイントにおける共鳴・共振・共感が発生する差異的同一性が形成される(天の引力)ということではないか。

この三段階は、思えば、ヘーゲル弁証法に似ている。しかしながら、根本的に異なる。なぜなら、ここでの精神は、原差異共振性・原即非性であるからである。言い換えると、太極(対極)性が根源にあるのであり、ヘーゲルのように同一性の一元があるのではないのであるからである。

初めに、即非ありきである。

そして、この原即非へと現象界から個体は、回帰・帰還するのであるが、単純に回帰するのではなく、現象同一性を経て、原差異共振性・原即非性へと回帰するのである。

この現象同一性、言い換えると、物質的同一性の「経験」によって、差異は、特異化されるのではないだろうか。つまり、身体化である。身体的特異性化である。ここで、現象界の経験を得て、超越界へと回帰すると思われるのである。

これは、反復ではありえないし、想起でもない。とりあえず言えば、特異化である。

特異化の刻印が形成されると思うのである。この特異性の刻印が、種を変容・「進化」させると思うのである。

整理すると、超越界が可能態であり、現象化が現実態(エネルゲイア)であり、現象界が特異態ではないだろうか。

エンテレケイア(終局態)とは、エネルゲイアと等しいだろう。アリストテレス哲学に欠けているのは、特異態であろう。造語して、シンギュレイアと呼ぼう。