感情、エネルギー、知的創造:超越的感情・エネルギー様態の知的精練

アメリカのチョの殺人事件や長崎市長銃殺事件等であるが、暴力に対して、私はとても関心をかき立てられる。

作家は、作品の中に、殺人事件を多く扱っている。ドストエフスキーシェイクスピアが代表的であろう。

私は、これは、作家の創造エネルギーと関係すると思っている。

そう、ここで、私は本題のテーマを考えたいのである。

これは、また、私自身の精神・身体の問題でもある。

私に関して言えば、今の時点から言えば、感情過多であった。理性と感情との乖離が強くあった。そして、私がいう特異性は実は後者に潜んでいるのである。

理性的一般性と感情的特異性の乖離、分裂、齟齬、ここに、哲学・心理学的問題がある。

おそらく、一般の人は、感情的特異性は弱いであろうから、理性的一般性である言語意識を形成し、集団で生きるのだろう。

とまれ、一般の人においても、多かれ少なかれ、この乖離の問題は存していると言えよう。

さて、私が提示したいことは、感情はエネルギー様態の一つであり、それは、メディア・ポイントとつながり、超越界と関係しているのであり、感情をなんらかの形で精練することが、人間の精神の発達には必要であるということである。

この感情・エネルギー様態のいちばん素朴な発露は、反発・反動として、現われるだろう。これが暴力である。

そして、次には、音楽を受容を介して、感情・エネルギー様態は変形されるようになるだろう。しかし、野蛮な音楽では、感情・エネルギーは攻撃・暴力的なものとなるだろう。私は、ある種の大衆音楽は、この点で問題があるように思う。

次には、美術や文学を介して、感情・エネルギー様態を精練することがあるだろう。(教養とは、本来、感情・エネルギー様態の知的涵養の意味があるだろう。)

そして、次には、哲学や数学や諸科学を介して、感情・エネルギー様態の高度な知的精練の方法があるだろう。ただし、ここに達するには、音楽、美術、文学を経ているべきである。

このような「教養」の知的精練を経ることで、感情・エネルギーは、メディア共鳴態・差異共振態へと変容していくと考えられるのである。

このような感情・エネルギーの変容の叡知は、近代主義において排除された、いわば、オカルト的な知に存していたと言えよう。もっとも、オカルト主義へと戻れと、勿論、私は主唱するのではなく、現代・今日的な精神・身体の精練の方法が考えているのである。

《力》の問題と言ってもいい。権力・支配・政治の問題と言ってもいいのである。

人の上に立つ人は、普通の人よりも、通俗に言えば、パワーを強くもっているのである。オーラがあるのである。

これは、ここでの視点で言えば、感情・エネルギー様態が強大であるということである。

そして、一般的には、それが、自我、連続的同一性自我を形成して、他者を排除することになるのである。

つまり、強大な感情・エネルギー様態をもつ、ある種の人間は、連続的自我を形成して、他者を強力に排除するのである。これが、権力闘争を生むのであるし、また、帰結的に戦争を生むと言えよう。

そして、大衆・国民は、通常は、思考停止状態にあるので、政治家や知識人等の言葉、宣伝を鵜呑みにしている群衆に過ぎない。

しかしながら、強大な感情・エネルギー様態をもつ別の種類の人間は、支配層に属さずに、ある者は、暴力的人間になり、犯罪者となり、ある者は、上に述べたように、教養を身につけ、知的精練を受けて、創造的な活動を行うと考えられる。

つまり、私が言いたいのは、感情・エネルギー様態における差異が人間にはあるのであり、それを無視して、すべての人間を同質に見るのは誤りであるということである。そう、ここに民主主義の問題がある。それは端的に、質的な大誤謬である。人間は平等ではありえないのである。すべては、差異である。特異性である。

とまれ、邪悪な政治家や役人が生まれるのは、感情・エネルギー様態の精練方法に問題があることが一因であると考えられる。即ち、近代主義教育である。近代的合理主義教育を受けると、感情・エネルギー様態の質的精練がなされず、反動性が形成されて、暴力を潜在させる二重人格になるのである。

また、凶悪な犯罪者もある意味で同様である。感情・エネルギー様態の知的精練方法の教育を経ないのでいるのである。チョの場合を見ると、創作という知的精練の方法は確かにもっていたが、しかしながら、超越的な精練方法がなかったのではないかと思う。現代文化は、超越性を喪失しているので、超越的感情・エネルギーの知的精練方法をもっていないのである。

そうである。これが、私が言わんとしていることである。単に、感情・エネルギー様態の知的精練の問題ではなく、超越的感情・エネルギー様態の知的精練の問題なのである。(簡略化して、超越感情エネルギー態としよう。)

例えば、ユングが復興させた錬金術という技法・叡知であるが、それは、この超越感情エネルギー態の変容方法であると考えられる。これを超越的精練と呼ぼう。

この錬金術の超越的精練方法は、視覚的像をともなっていた。つまり、美術的方法をもっていたのである。つまり、超越的精練と美術との連関性があるということである。ひとことで言えば、ヴィジョン、精神的ヴィジョンの方法と言えると思う。

さて、現代の危機は、超越感情エネルギー態の超越的知的精練の方法の欠落にあり、それを公的に提示する切迫な必要がある。

プラトニック・シナジー理論は、正に、超越的知的精練の意味を説き、また、その方法も示唆すると言えよう。

これは、有り体に言えば、私自身の問題であった。私は、自分の感情・エネルギーを理性・知性に取り込むがことができずに、コスモスを私的に構築していたのであるし、また、コスモスという観念は、物質科学では稀であるが、多くの芸術や哲学等に見いだされる思想である。

現代の狂気や暴力・犯罪の知的要因は、この超越的精練のための知的科学的理論の欠落にあるだろう。確かに、ユングは、創造的心理学によって、超越的精練方法を説いていることは否定できない。しかしながら、ユングの方法は、古いままなのだえる。復古なのである。そうではなくて、現代科学や哲学の進展にも耐え得るような方法・理論が必要なのである。

これは、まったく、プラトニック・シナジー理論の独擅場というしかない。哲学、科学、数学的方法をもった超越的理論であり、現代科学、哲学等にも、根拠を提示できる理論なのである。

とりわけ、宗教、神話学、心理学、芸術を包摂している点が、強力であり、超越感情エネルギー態を充分に知的超越的に包摂しているのである。

結局、現代は、近代主義の終焉に当たり、ポスト・モダンもすたれて、大昏迷状態にあり、トランス・モダン社会へと転換すべき時代となっているのであり、このとき、近代的理性・知性から解き放たれた超越感情エネルギー態を知的精練する必要が生じているのである。カオスの様態にあるのである。これを超越的精練によって、コスモスへと転化する必要があるのである。いわば、トランス・モダン・コスモスへの変換である。

ここで、想起するのは、ドゥルーズガタリの『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』等である。そこでは、脱構造主義ポスト構造主義という用語はミスリーディングである)における放出されたエネルギーの創造的変容のあり方が、奔放に説かれていた考えられるのである。

しかしながら、彼らは、唯物論や近代的連続論に囚われていたので、超越性、超越界に達することができずに、放出されたエネルギーが超越感情エネルギーであることが認識できずに、現象エネルギーの変容だけを模索しただけであったのである。

それは、構造主義的エネルギーと言ってもいいだろう。それは、現象内在連続的エネルギーに過ぎないのである。

実数軸のゼロ度のメディア・ポイントに留まったのである。

最後に、ドゥルーズガタリの脱構造主義構造主義とにおけるエネルギー様態を整合化して本稿を終えたい。(簡単にするために、ドゥルーズガタリの脱構造主義を、DG脱構造論と呼びたい。)

DG脱構造論であるが、それは、連続的同一性2項対立構造において、生起する連続態における動態論である。つまり、構造内の生起する動態・エネルギー態を脱構造と考える思想である。

しかし、これは、連続論に留まっているのである。

だから、DG脱構造論は、必然的に構造主義に留まると言えよう。

ここで、構造主義について簡単に言うと、よくソシュールの機能的差異を提起されるが、その機能的差異ないし構造的差異とは、連続的同一性によって、形成される2項対立が生みだすものである。だから、連続的同一性と構造とは一致すると言えよう。

つまり、構造主義とは、近代主義の連続的超越的構造を提示したものと考えられる。

言い換えると、カントの超越論的形式と等価である。

カントの超越論が、構造主義の先駆と言えよう。

ついでに言うと、ポスト・モダン理論とは、構造主義の動態理論であったと言えるだろう。これは、連続論であり、差異=微分理論であったのである。ここでは、シェリングキルケゴールニーチェウスペンスキーフッサール、そして、鈴木大拙西田幾多郎九鬼周造等の行った超越性へのフレークスルーが看過・無視・否定されているのである。

プラトニック・シナジー理論は、これらの理論を哲学・数学的に統一化したのである。