検討問題:差異と同一性に関して再論、他

1) メディア・ポイントから自我同一性への能動・攻撃的志向性が発動するとき、一般的に、差異と同一性(連続的同一性)が連続化される。言い換えると、超越的差異共振性と連続的同一性が連続融合化される。
 このときは、中心は、連続的同一性・自我にあるのであり、差異・超越的差異共振性は、従属的なのである。天使が悪魔に仕えているのである。言い換えると、連続的同一性が優位にあり、超越的差異共振性は劣位にあるのである。端的に言えば、後者は否定されるのである。
 しかしながら、無化されても、それは、本来、存しているので、否定的に存しているのである。これは、言い換えると、ある意味で、道徳・倫理・正義が、連続的同一性自我のために、利用されることを意味しよう。連続的同一性・自我にとって、「道徳・倫理・正義」は自我肯定のために基盤となるが、「道徳・倫理・正義」は倒錯し、自我に仕えるものになっているのである。独善・偽善・欺瞞である。道徳・倫理・正義は本来、差異共振性にあるのであるが、それが、連続化されてしまい、差異が否定されることになると言えよう。そう、自己満足になっているのである。自惚れである。
 結局、PS理論は、この連続化を切断して、超越的差異共振性を純粋化すると言えよう。その結果、連続的同一性・自我は、解体して、差異的同一性=自己になると言えるだろう。言い換えると、連続的同一性自我は、単に、同一性自我となり、また、不連続的に並存して、差異共振性が存しているのである。この同一性自我と差異共振性との不連続的並存様態が、自己様態と言えるだろう。つまり、同一性と差異との即非的共存・共立である。


2) 気質とメディア・ポイント:占星術の根源は何か。

最近は占星術について考察していないが、新たな考察のための糸口が見えなかったからである。
 しかしながら、ルネサンス図像学を見て、閃いたものがあったので、少し考察してみたい。これは、端的に、精神の問題である。というか、インド文化で言えば、チャクラやクンダリーニに問題であると思う。以前、宇宙と人間ないし地球とを相関させる原コスモスが存在して、それが、占星術が本来対象としていたコスモスであると考えたことがある。原コスモスがあるなら、それは、メディア・ポイントとなるだろう。
 とまれ、問題は、様態・様相なのである。原コスモスの波動があるとしよう。これは、いわば、原コスモス・ハーモニーをもっているのではないだろうか。ケプラーが拘ったのはこれであろう。
 結局、メディア・ポイントのハーモニーの問題となる。波動とパターンの問題と言ってもいいだろう。以下、作業仮説的に考えてみよう。
 チャクラは七つある。クンダリニーは三回転半を意味する。私は、この七とう数に注目したい。これが、古代宇宙論における惑星数となるからである。つまり、メディア・ポイントにおいて、七つの「惑星」があるということになる。七つの結節点とも言えるのではないだろうか。「惑星」というと天文学上の惑星と区別するため、メディア・プラネットMedia Planetsと呼ぼう。
 さて、このメディア・プラネットは、差異であり、共振していると考えられよう。メディア・ポイントは、虚数軸では、差異共振化しているからである。しかしながら、実数軸において、連続化するときに、物質的同一性化による力学をもつと言えよう。しかしながら、これらを、天文学上の惑星とは一致させんずに考えよう。
 とまれ、七つのメディア・プラネットがあり、それらを段階・階層と考えよう。螺旋的階段・階層と考えよう。差異共振化して七つのメディア・プラネット螺旋階層となる。
 ここで、人間を出生を考えると、人間のメディア・ポイント(内的身体)において、これらの七つのメディア・プラネットの差異共振シナジー性(パターン、様態)をもっているとしよう。つまり、個体における特異な差異共振パターンが潜在化している。そして、同時に、連続化による自我形成がある。
 問題は、自我形成である。特異な七つのメディア・プラネットの差異共振シナジー・パターンをもって、連続化するとはどういうことなのであろうか。連続化という事態は共通の事態であるが、特異なパターンは、当然、共通ではない。差異の特異なパターンが連続化するとは、特異な連続化と言えるだろう。
 そして、思うに、この特異な連続化が、個々人の気質・性質・性格の原型を形成するのではないだろうか。
 また、七つのメディア・プラネットが原太陽系を形成するならば、また、それは、時間を形成するだろう。原太陽系としてのメディア・プラネットであり、それは、太陽系を形成し、同時に、個々人の気質・性質・性格を形成しよう。
 結局、今の作業仮説では、原コスモスとして、メディア・ポイントを考えるということである。それは、メディア・コスモスである。これが、占星術の本来の対象というように考えられるのである。そして、敷延すれば、オカルティズムの宇宙論の対象も、本来は、これであると考えられる。
 怪しいコスモス論であるが、今はここで留めたい。


3) 量的資本から差異共振シナジー的資本へ:トランス資本主義?:

例えば、ITによって、流通変革が起る。経費の削減が、生産者と消費者の両者において、達成される。情報によって生産者Pと消費者Cとが、「共振」化すると言えよう。情報をメディアMとすれば、P-M-C⇒シナジー効果Sとなるとしよう。メディアが生産者の差異と消費者の差異とを共振化(差異共振化)させて、シナジー化させたと言えよう。思うに、メディア化以前の資本主義においては、生産者は、生産を単純に拡大することで、利益を得てきた。そこには、機械化も含まれる。生産機械を導入することで、生産を拡大した。それは、量的な生産の拡大である。しかるに、経済のメディア化とは、差異と差異との共振シナジー化を意味すると言えよう。生産者側の量的拡大から、生産者と消費者との質的共振化が生起したと言えよう。
 ということで、高度情報資本主義とは、トランス・モダン資本主義とは言えるだろう。これが意味するものは、何なのか。未だ、初期段階で、明確になっていないようだ。政治的には、多極化である。しかし、総体的に、これが何を意味するのか。トランス・モダン化とは何かということになる。結局、差異とは何かということになるだろう。差異は、本来、超越的差異、超越的共振的差異である。このエネルゲイア、超越的エネルギーの純粋な発現が求められることになるだろう。経済だけでなく、あらゆる領域・分野において、超越的エネルギーの純粋な発動が求められよう。
 結局、ここでは、高度な知、超越的知性ないし超越的理性が必要なのである。超越的知性が進展した社会が勝者となるだろう。プラトニック・シナジー理論を理解できた社会が勝者となろう。ポスト・唯物論である。ポスト・近代主義である。超越的資本主義となるだろう。トランス・キャピタリズムと呼べるだろう。


4) 差異と同一性との関係について:

これまでの諸々の検討から、差異と同一性との区別があいまいになってきた向きがあるので、ここで確認のために、明確にしたい。メディア・ポイントから、個は、差異共振性と連続的同一性とを発現させるのであるが、後者のもつ連続性のために、前者は後者と混交・混濁されるのである。つまり、連続的同一性自我へと差異共振性は連続化されてしまうのである。ここに、自我の中心主義、独善・独断・欺瞞が発生する根因・起因があると言えよう。
 さて、本件の問題を検討すると、個体が差異であるとは、差異共振性において差異であるということになろう。連続的同一性という自我は、当然、差異ではなくて、他者を否定する連続的同一性、集合・集団・群集的同一性である。ここには、本来、個はないのである。外部の個体に対して、鏡像を形成して、それと連続した同一性である自我を形成しているのである。反射的自我像と言ってもいい。だから、個体とは、自我においては、連続的同一性であり、潜在する差異共振性においては、差異である。差異は、現象的連続化によって、転倒しているのである。倒錯様態にあると言えよう。言い換えると、自我において、差異は、いわば、原イデオロギーになっているのである。そう、悪魔になっているのである。本来、差異は、差異共振性であり、天使である。聖霊である。しかし、自我によって、転倒・倒錯して、悪魔になっているのである。無明とは悪魔化なのである。これが、世界の暴力・狂気・無知を形成しているのである。とまれ、自我において、差異は転倒して、悪差異化していると言えよう。
 さて、ここで、本件の問題であるが、例えば、経済において、生産者と消費者を考えたとき、どうなのかである。もし、生産者が自我のままであったとしたらどうだろうか。あるいは、消費者が自我のままであったらどうなのだろうか。自我は、連続的同一性であるから、物質的、量的合理性は理解できる。端的に、唯物論者である。だから、他者を排除して、物質・量的合理性と追求するだろう。環境という他者を無視して、原発を建設したり、自然を破壊してダムや道路を建設するだろう。あるいは、勤務者の賃金を抑えて、利益を追求するだろう。しかしながら、これでは、賢い消費者は納得しないだろう。あるいは、出版社が、売れっ子の作家のものを出版するとしよう。しかし、その作家は、過去は優れていたが、今や才能が枯渇して、駄作を多産している、粗製濫造しているに過ぎないのである。出版社は、宣伝するが、賢い消費者は、そのような作品は読まない。出版社は、作家の過去の差異に囚われているに過ぎない。それは、出版社の「自我」に囚われているのである。作家も、自我に囚われているのである。連続的同一性に囚われているのである。また、自我の消費者を考えると、彼は、自我による思い込みのために、ある作家は優れた作家であると決めつけて、駄作を買って、名作であると思っているのである。
 ということで、生産者と消費者における差異と同一性を考えると、両者を個体とするならば、それらは、差異にもなるし、同一性にもなるということになる。差異/同一性としての生産者や消費者となる。高度情報化においては、生産者と消費者とは、差異となるのである。生産者や消費者が、同一性すなわち、連続的同一性・自我のままならば、高度情報化には、適応できない。確かに、流通革命によって、自我の消費者でも、経費を削減できよう。つまり、その場合は、自我・同一性の消費者は、流通革命によって、差異になっていると言えよう。ということは、IT革命、ICT革命とは、同一性・自我の個体も、差異化へと転化させると言えよう。もっとも、それは、消極的な意味での差異化ではあるが。ということで、高度情報革命とは、いわば、強制・必然的な差異共振シナジー革命である。そして、これは、究極的には、超越的差異エネルギーを純粋化して、森羅万象を差異共振化させるように進展するだろう。「神」と人間との差異共振的協働化である。