志向性の問題:他者的志向性と同一性的志向性:否定的連続的同一性か

志向性の問題:他者的志向性と同一性的志向性:否定的連続的同一性から脱連続的超越界への復帰


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


散歩をしてきてから、というか、マクドナルドで百円コーヒーを飲みながら、ノートパソコンに書き込もうかと思う。でも、今日は混んでいるだろう。
 一言いうと、先に検討問題として出したことのさらなる精緻化である。志向性があり、それが、メディア点(メディア・ポイント)において、同一性化へと志向する。しかし、この同一性化とは、連続的同一性化であり、超越的差異共振性とその超越的エネルギーは、否定的に、連続的同一性自我認識に適用されるのである。
 差異共振的超越エネルギーが連続的同一性自我へと転化されるのであり、エネルギーの暴力化がある。ここに脱構築主義でお馴染みになった二項対立が形成されるのである。そして、これが、近代主義の基盤である。
 結局、メディア点における超越的差異性と同一性との連続的一体化がここにはり、この連続化は、超越性を現象的連続性へと同化吸収させてしまうのである。
 問題は、同一性志向性である。本来、超越界においては、差異への志向性があるのであるが、メディア点においては、同一性志向性へと転じていることになるのである。これをどう考えるのかが重要な問題である。
 本来は、差異を志向しているのに、どうして、同一性を志向することになるのか。これは、単純に不思議である。しかしながら、不思議ではないだろう。原自己iは、原他者-iを志向するのであるが、これが、メディア点においては、原他者=差異への志向性が、同一性志向性へと転換するのである。
 これが、現象化の特徴である。ここには、光と映像の問題がある。つまり、映像認識ないし映像知覚・認識の問題である。原自己は、原他者を志向している。おそらく、本来は、原自己と原他者の即非共振によって、超光の様態にあるのであるが、メディア点においては、この超光が暗くなるのである。その換わり、外界の光へと志向するのである。いわば、内なる眼が外へと向けられるのである。この視線の、いわば、方向転換がメディア点にあると考えられるのである。
 直観では、ここには、志向性のなんらかの反転があると思えるのである。回転と言ってもいい。原自己iが半回転して、いわば、後ろ向きになるのである。本来、原他者-iを向いていた原自己の原視覚が、いわば、半回転して、後ろ向きになり、それが、外界へと志向視覚となるように思えるのである。
 i*i^2⇒-iではないだろうか。これが、連続的同一性を意味するのではないだろか。正当な自己認識は、i*(-i)⇒+1であるが、この半回転の場合は、i*i^2⇒-iである。そして、-i*(-i)⇒-1となるのではないのか。
 この問題はおいて置くこととして、光の問題を考えよう。本来の内的光が暗くなり、外的光を志向する。問題は外的光とは何かである。
 ひとまず、ここで置いておきたい。
さて、考察を続けよう。私は先に、光の二重性、即ち、光と超光との二重性について述べた。超光とは、メディア点の差異共振性、すなわち、超越性を意味する。つまり、現象界は、単に物質的同一性、光の世界だけでなく、超越的差異性、超光の世界でもあるのである。現象界と超越界とが交差しているのである。しかしながら、混交はしていない。メディア点という特異点においてのみ、これが現実化しているのであるが。
 このことと、志向性とを関係させて考察してみよう。内的他者-iから離れた原自己iは、外的他者を志向する。しかしながら、この外的志向性は、実際は、内的志向性ないし差異共振性を潜在させているのである。
 そう、発生論的に見ると、外的志向性とは言え、内的志向性のもつ差異共振性の超光性をもっているのである。つまり、外的志向性と内的志向性の二重性があったはずである。そして、その二重性によって、人間は、古代ないし超古代においては、外界に超越界を認識したはずである。しかしながら、内的志向性が曇りだし、外的志向性が中心となるときが来たといえよう。それが、近代である。唯物論的近代である。
 これが私が言う差異共振性を否定した外的志向性、同一性的志向性を意味する。問題は、このシステムの力学である。非常に複雑な問題である。最初に、光の映像視覚認識について考えたい。
 超越的差異共振性は、超光であり、いわば、超光的ヴィジョンをもっていると言えよう。イデア界的ヴィジョンとも言えよう。それが、現象化において、いわば、潜在化するのである。(思うに、夢において、このヴィジョンと近似したヴィジョンが発生するように思える。)そして、現象化における志向性は、当然、外的視覚的ヴィジョンをもつことになる。
 直観では、内的志向性を、言わば、外界へと投影するのである。本来、内的他者に向けられている内的志向性を、外部へと投影するのである。ここで、ヘーゲルの疎外という概念を使用してもいいのだろう。
 問題は、この投影である。投影において、志向性は、同一性的志向性に転換しているのである。本来、差異的志向性であるが、投影において、同一性的志向性に転換するのである。これをどう理論化したらいのか。
 同一性的志向性とは、連続的志向性ということである。そう、ここでは、以前述べたように、i*-(-i)というマイナスの志向性が作用すると考えられるのである。他者-iを否定する自己同一性志向性が作用すると考えられるのである。これが、現象化において発動すると考えられるのである。つまり、現象化とは否定性の発動であると言えるだろう。ヘーゲル哲学はこの点では正しいのだろう。しかし、半面においての正しさであるが。
 この否定的連続的同一性志向性によって、外的知覚・認識が形成されるのであり、ここで、言語認識が中心となると言えよう。
 では、このとき、光、超光、映像の問題はどうなのか。例えば、同一性志向性と光とはどう関係するのか。内的志向性が投影されると私は言ったのであるから、いわば、内的光が外界へと投影されると言えるのではないのか。しかし、内的光は本来、差異共振的光、即ち、超光である。だから、超光が投影されるということになるのではないのか。
 この点に関連することは以前検討したが、投影とは、単純に内的光の投影ではなくて、内的光を否定するような投影である。内的光、超光を否定して、投影するのである。
 では、何が投影されるのであろうか。それは、単純に否定された超光であろう。つまり、i*-(-i)の光であろう。これは、⇒-1であり、これが、否定的連続的同一性認識であると考えられる。
 否定された超光である「光」が投影されるのである。では、この「光」とは何か。それは、端的に、物質的光であろう。同一性の光である。冷光である。これは、また、不気味な光であろう。(思うに、邪悪な人間の眼差しにある異様な光はこれではないのか。なにか、闇に光るような視線、それが、これではないのか。闇の光と言えよう。そう、怪光である。)
 この否定的同一性の光(怪光)によって、外的ヴィジョンを形成するのである。しかしながら、人間には本来、内的光が潜在しているのである。これが、精神の光である。霊光と言っていいだろう。つまり、人間には、怪光と霊光の二重性があるということになる。(ブッシュ、小泉は完全に怪光の持ち主である。)
 ということで、否定的同一性志向性において、超光は、怪光となり、映像は、怪光的映像となるのである。だから、現象界とは、霊光と怪光の二重世界であり、霊光を喪失した近代社会は、怪光の世界であり、とりわけ、現代日本は、超怪光社会と言えよう。魑魅魍魎・百鬼夜行の世界なのである。仏教では、端的に、無明と呼んでいるのである。以上で、否定的連続的同一性志向性についての検討を終えたことになる。
 結局、近代においては、否定的連続的同一性志向性が中心となり、暴力・狂気・痴愚が常態となるのである。妄想が常態となるのである。現象界的妄想症に罹患しているのである。
 そして、この人類精神病からのエクソダスが切望されるようになるのである。ポスト・モダンは一つの試みであったが、否定的連続的同一性志向性から脱却できなかったのである。いわゆる、ポスト構造主義は、構造主義から脱却できなかったのである。
 思うに、ポスト・モダン様態において、超越性自体は作用していたのであるが、それが、否定的連続的同一性志向性から絶対的に切断されていなかったのである。ドゥルーズガタリの内在性ないし存立(共立)平面の哲学がとりわけそうであった。彼らは、離接という概念までは達したが、明確に、即非という論理には達しなかったのであり、そのために、内在性に留まり、超越性に達することができなかったのである。また、デリダ脱構築主義であるが、それは、ドゥルーズガタリの哲学よりは、切断性を明確にもっていた。しかしながら、デリダは、現前性(私は、これを連続性ないし連続的同一性と把握する)を否定するあまりに、ロゴス(論理)自体を否定してしまい、不合理主義ないし非合理主義に留まってしまったのである。否定神学的と言えよう。確かに、デリダは、構造の脱構築(脱構造主義と言えよう)において、超越性を示唆したと言えるのであるが、それを、ロゴス中心主義批判によって、それをロゴス化できなかったのである。自らの策に足をすくわれたと言えよう。超越性ないし超越界が根源となるのであるが、根源とは、デリダに言わせれば、現前となるので、批判・解体されることになるのである。そう、デリダにわかっていなかったことは、やはり、明確な不連続性、絶対的な不連続性である。もし、これを真に理解したなら、超越的ロゴス、超越的根源が可能であることが了解されたであろう。
 結局、ドゥルーズガタリデリダの脱構造主義であるが、それは、絶対的不連続性を捉えられずに、連続的現象界から超越的に飛翔して、超越性、超越界、超越的差異へ到達することができなかったのであり、連続的現象界との単なるズレを永遠回帰的に反復するしかなかったと言えよう。
 そして、ここにおいて、不連続的差異論の誕生の絶対的ブレークスルーの意味があり、また、プラトニック・シナジー理論の絶対的トランス・モダンの意味があるのである。この両理論の誕生により、絶対的に、近代主義からの脱却が可能となったのである。また、Kaisetsu氏のi*(-i)⇒+1という超越的差異即非共振性における正当な自己認識の数学化によって、単に哲学だけでなく、科学に耐える理論になったのである。
 志向性に関係させれば、根源的な、他者への志向性があり、それが、メディア点(メディア・ポイント)における現象化において、否定的連続的同一性志向性となり、倒錯・怪光・無明化する。しかるに、プラトニック・シナジー理論によって、この連続性を超越的に切断して、根源の超越的差異共振性へと復帰・帰還・回帰するのである。ニーチェが求めた永劫回帰がこれで可能になったのである。スピノザの永遠の相が突きとめられたのである。プラトンイデアは、超越的差異共振イデアへと創造的に進展したのである。正に、New Platonic Synergy Theoryである。これは、西洋哲学と東洋・日本哲学の統一であり、また、新イデア論的に諸科学を根拠付けると同時に、文系と理系の諸科学を統一するものであり、また、芸術や宗教への深い洞察を与える王者の理論と言えるのである。つまり、「神」の真相を洞察した理論なのである。