プラトンの『ティマイオス』の「コーラ」とは、MEDIA POINTメディア
プラトンの『ティマイオス』の「コーラ」とは、MEDIA POINTメディア・ポイントのことだろう
テーマ:メディア・ポイントMedia Point
高橋哲哉氏が『デリダ 脱構築』(講談社)を拾い読みして、デリダの脱構築理論とは、実に、単純な理論であると思う。二項対立、プラトンで言えば、イデアと感覚物の二項対立を、第三者(コーラ)によって、解体して、第三の地平を提示する方法である。そして、この第三者は、両義的なものである。これは、30年以上前に流行した山口昌男氏の構造主義神話学と同じである。
そう、山口昌男氏の構造主義はドゥルーズ&ガタリの動的構造主義と類似していると考えられる。この点では、デリダの脱構築理論も同じである。
しかしながら、思うに、高橋氏の説明が、脱構築理論を動的構造主義にしてしまっているではないかと思う。デリダの脱構築理論が、山口昌男やドゥルーズ&ガタリの動的構造主義よりも優れている点は、二項対立を切断している点であり、この点を看過すると、平凡な両義性の理論になってしまうのだろう。これは、内在的超越論と等価であると思う。PS理論的には、超越性を連続化させて、連続的構造に留まる理論である。
つまり、脱構築理論は、連続性の切断というブレークスルーの意味をもつのである。しかしながら、欠点は、既述したように、デリダが連続性や二項対立を切断したとき、生まれる第三の地平に、ロゴス・論理を認めずに、痕跡しか見なかったことにあるだろう。確かに、西洋哲学の論理学でははみ出す、ロゴス・論理(即非の論理)がそこにあるのである。つまり、デリダは、西洋哲学の限界に達していたと言えよう。もし、東洋哲学、とりわけ、日本哲学を知っていたなら、あるいは、ウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」(第三の論理学)を知っていたら、脱構築を即非の論理学へと進展できたであろう。
ということで、脱構築理論は、トランス・モダン理論への過渡的理論と言えよう。
さて、プラトンのコーラであるが、それは、PS理論のMEDIA POINTであると考えられる。超越性と同一性とが不連続的に交差する絶妙な領域なのである。そう、そうすると、イデアとコーラの関係が問題になるだろう。ある意味で、イデアは、コーラと等しいが、コーラとは別に存する絶対的超越性である。
そう、西田哲学の絶対矛盾的自己同一性とは、イデアでもあるし、コーラでもあると言えるのではないだろうか。
後で再考したい。
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哲学のもたらす豊かさ
テーマ:ポスト近代的自我/ポスト近代合理主義
普通の人は、哲学を、抽象観念的で、現実離れした、難しいことをゴチャゴチャ言っているように捉えているだろう。「そんなもん」は、生活には役に立たないとたかをくくって考えているだろう。
それが、凡人の浅薄というものである。今は、詳述しないが、簡単に言えば、哲学を無視しているから、現代日本人は、幸福にならないのである。哲学は、考えるための大地である。哲学が無ければ、思考は流行に流されるだけである。もっとも、日本の哲学は、流行的である。私が言うのは、アカデミズムの哲学ではなくて、自己哲学である。個哲学である。哲学とは、道元的に言えば、自己を習うことなのである。だから、本来、アカデミズムの哲学は、意味がないのである。
自己、個こそが、哲学の対象なのである。結局、自己哲学によって、普遍的思考を学ぶのである。これが重要なのである。この普遍的思考によって、何が、自己の創造的生活のために必要なのかがわかるからである。つまり、自己の豊かさのための知恵が生じているのである。ここにおいて、正当な判断力が生じると言えよう。哲学がなければ、愚かな人生を歩み、国を滅ぼすのである。