メディア・ポイントMEPOの志向性の力学:超越光から現象光への視覚価

メディア・ポイントMEPOの志向性の力学:超越光から現象光への視覚価値逆転メカニズム


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


昨日、「わたしは絶対的に正しい」という近代的自我の様態を説明したが、なぜ、同一性への志向性と差異への志向性があり、一般には、後者を否定して、前者中心になるのか、今ひとつ不明のように思えたので、ここで考察してみたい。
 結局、人間の問題の究極は、この点にあると言えよう。暴力、争い、犯罪、狂気・妄想・痴愚等が生まれるのもこの点にある。仏教では、無明として、解脱(げだつ)方法を二千年以上説いているのである。しかしながら、仏教の知恵が残念ながら生かされていないが、それは、自我様態には、知恵を無視する強固な原因があるからなのだろう。これを探求する意味でも検討したい。
 結局、メディア・ポイントの現象力学の問題である。フッサールの志向性をPS理論的に発展させると、志向性は、超越界から現象界へと志向する(PS理論的志向性)。
 この現象界への先端が、現象的メディア・ポイントである。メディア・ポイントMEDIA POINTについて、ここで明快に整理しておこう。これまで、議論の便宜上、私は、メディア・ポイント(MEPO)を、超越的MEPOと現象的MEPOに分けているが、本来、MEPOは、一種類である。即ち、虚数軸と実数軸とが交差する原点がMEPOなのであり、この交差において、超越性と現象性が即非的に一致するのである。つまり、MEPOの虚数軸の様態を超越的MEPOと、実数軸の様態を現象的MEPOと呼んでいるのである。そして、超越的MEPO=且つ≠現象的MEPOである。この即非的両義性が、実に、霊妙である。
 さて、志向性は、MEPOにあると言っていいだろう。そして、始点・起点は、超越的MEPOであり、終点・先端は、現象的MEPOである。
 そして、MEPOはエネルギー様態であると言っておこう。超越的MEPOは超越的エネルギーをもち、現象的MEPOは現象的エネルギーをもつと言えよう。だから、MEPO自体は、超越即非現象的エネルギー様態であると言えよう。
 (思うに、作業仮説的に、超越的共振と現象的共振がMEPOには生起しているのではないだろうか。つまり、メディア共振作用があり、それは、超越性と現象性との共振性である。この超越/現象的メディア共振において、エネルギーの流入・参入があり得るのではないだろうか。いわば、ゼロ度の共振であり、ポテンシャル・エネルギーが賦活されて、超越/現象的エネルギーに転換するのではないだろうか。これは、まったくの作業仮説であるが、これによって、超越界のデュナミスをエネルゲイア化できるのではないだろうか。いわば、「真空」からエネルギーを生みだすのである。)
 以上のように整理して、本件について考察して行こう。志向性の終点の現象的MEPOの様態の力学は何かである。超越界において、超越的差異が共振様態にある。それが、志向性をもつとはどういうことなのか。
 これまでの考えを述べよう。志向性とは、差異・他者への志向性なのである。私は、差異・他者でありつつ、差異・他者ではない。言い換えると、私は、差異・他者と一体でありつつ、同時に、一体ではなく、私という個である、ということになるだろう。
 これは、離接という関係と言ってもいいだろう。あるいは、離合、離一である。つまり、志向性とは、離合関係(即非関係)を形成するのである。
 では、超越界における超越的差異共振性の意味は何なのか。それは、離合・即非関係ではないのか。
 これは、微妙な問題である。超越界における差異共振性とは、離合関係とは言えないのではないだろうか。離れ、合するという空間関係がないのではないだろうか。あるいは、直観であるが、それは、ポテンシャル・エネルギー様態であり、動態性が欠如しているのであり、直截な志向性はもっていないと考えられないだろうか。
 つまり、超越界においては、志向性自体はなく、超越的MEPOにおいて、志向性が生起するということではないのか。端的に言えば、志向性とは動的(エネルゲイア的)であり、MEPOという特異点において生じるということではないのか。とまれ、ここでは、MEPOにおいて、動的である志向性が発生すると仮定しよう。それは、差異・他者への離合的志向性となる。
 それは、数式で言うと、i⇒-iという離合的志向性ということになるだろう。それ以前においては、i*(-i)という超越的デュナミス(ポテンシャル・エネルギー)様態にあったということになる。だから、超越的MEPOにおいて、i⇒-iの離合志向性が発生するというように考えていいだろう。
 では、現象的MEPO様態はどうなのか、ということになり、本件の問題に関係することになる。これまでの考察では、連続的同一性と差異共振性との矛盾対立が発生するということであった。
 連続的同一性とは、i*-(i)⇒-1であり、差異共振性とは、i*(-i)⇒+1ではないのか。つまり、i⇒-iという志向性は、連続性と共振性との対立・矛盾する様態を生むということである。
 連続的同一性は差異・他者(-i)を否定するものであり、現象的MEPO的差異共振性は、差異・他者(-i)を肯定するのであるが、後者とは何なのであろうか。つまり、どういう力学をもつのだろうか。連続的同一性は、離合志向性の合一性であろう。私は、他者・差異と合一する。しかし、これは、私の一方的な合一性に過ぎず、他者・差異は無視されているのである。(具体的に言えば、アメリカの覇権主義がそうである。民主主義で世界を合一化するのである。)
 そして、離合志向性の離的志向性が残っていることになる。つまり、現象的MEPOにおいて、離合的志向性は、合一的志向性と分離的志向性に分離・分裂するのではないだろうか。
 前者が連続的同一性であり、後者が差異性である。しかし、後者は差異共振性ではないのではないだろうか。つまり、離合的志向性において、合一的志向性と分離的志向性の、いわば、極性が生起するが、分離的志向性は、差異ではあっても、差異共振性ではないのではないか。
 ここは、難問である。とまれ、合一的志向性がプラスエネルギーならば、分離的志向性はマイナスのエネルギーであろう。両者を足して、ゼロになるのではないか。
 とまれ、以上のように考えると、差異共振性が生まれてこないだろう。ただ、合一と分離の極性志向性があるだけである。シーソー状態である。
 では、現象的MEPOにおける差異共振性とはどういうことなのだろうか。(今、思ったが、ドゥルーズガタリの離接という概念は、以上の合一性と分離性との極性を意味しているのではないか。だから、それは、共振性ではないだろう。)
 思うに、合一性における分離性、ここに、離合・離接性があるだろう。同一性でありつつ、差異である、ということになるだろう。同一性・即非・差異である。だから、現象的MEPOにおける合一性/分離性の極性において、いわば、差異共振性が発生すると言えないだろうか。
 では、この極性において発生する差異共振性とは何か。ここで、MEPOの意味が重要になってくると言えよう。MEPOは、本来、超越/現象的MEPOである。超越界と現象界の交差する即非的接点である。そして、作業仮説的に、超越的MEPOと現象的MEPOは、共振すると考えている。メディア共振である。(Kaisetsu氏のメディア共鳴とは、ある意味でつながるだろうが、ここでは、それとは、別に名付けている。)そう、MEPO共振と言ってもいいだろう。
 このメディア共振が、ここでの差異共振性を発生させるように思えるのである。先に、超越性ということを、MEPOに見たが、端的に、超越性が差異共振性の原因であると言ってもいいだろう。
 ということで、MEPOにおいて、矛盾した微妙な様態が発生していることが確認できよう。即ち、超越性である差異共振性と、離合性志向性の極性における合一的否定的連続的同一性と分離的差異性との三様態がここには存しているだろう。
 しかしながら、分離的差異性iこそが、超越性=差異共振性に接近できると考えられるだろう。何故なら、合一的連続的同一性は、差異・他者-iを否定しているので、それを喪失しているからである。つまり、分離的差異であるiと否定された差異・他者-iが、MEPOには、「残存」しているはずである。
 この分離的差異iと否定された差異・他者-iとの並存様態がMEPOにはあると言えよう。そして、この並存様態が、超越性=差異共振性と、呼応するのではないだろうか。あるいは、結びつくのではないだろうか。
 もっと整理する必要がある。離合的志向性から考えよう。ここにおいて、合一的志向性、即ち、否定的連続的同一性が作用し、差異・他者-iが否定される。i⇒-iであり、i⇒-i⇒-(-i)=iである。
 それに対して、分離的志向性の場合、iと-iとが分離したままである。いわば、分離様態である。しかしながら、ここは、MEPOである。MEPOにおいては、超越性=差異共振性が作用すると考えられる。だから、この分離様態において、超越的差異共振性が作動すると考えられるのである。つまり、i*(- i)⇒である。
 そして、合一的志向性i*i⇒-1が生起しているから、差異共振性と合一的志向性は対立することになる。言い換えると、差異・対象-iに関して、肯定と否定との対立がここには成立しているのである。
 そして、これが端的に、近代の矛盾であると言えよう。差異・他者-iに対して、両義的価値をもつのである。そして、これが、実は、構造主義であり、動的構造主義である「ポスト構造主義」の様態であろう。ドゥルーズの場合、正に、これがあてはまる。では、デリダの場合はどうなのか。先には、デリダは、この矛盾構造の超えたものを示唆したと述べたがどうだろうか。脱構築理論は、確かに、2項対立を解体して、第三のあり方を示唆したとは言える。しかしながら、パルマコンやコーラに対するデリダの考え方を見ると、それは、確かに、第三のあり方ではあるが、内在的両義性を超えてはいないのではないだろうか。
 つまり、差異・他者に対して、脱構築は、肯定と同時に否定を説くのであり、この点では、単なる内在的両義性の提示に留まるように思えるのである。だから、先に、デリダは、現象的MEPOを超えたものを示唆したと言ったが、それは、間違いであろう。やはり、ドゥルーズと同じで、内在的矛盾共立に留まったのではないだろうか。
 さて、本論にもどって、差異・他者-iに対する両義性について考察しよう。結局、MEPOにおいて、差異共振性と連続的同一性の相矛盾する様態が出現しているのである。そして、これが、ポスト・モダン様態と呼んでいいだろう。これを定義したい。
 この点では、やはり、ドゥルーズデリダも共通だと思われるのである。この相矛盾する様態において、その相矛盾を常に提起するのが、デリダであり、それが脱構築の方法である。構築が常に解体されるのである。しかるに、ドゥルーズの場合は、差異共振性と連続的同一性を、連続的差異を基盤として、結びつけるのである。差異と同一性との共通基盤として、差異=微分を、ドゥルーズベルクソン)は置くのである。相矛盾という事態に亀裂を見るのが脱構築の方法であり、相矛盾を差異=微分で連続化するのがドゥルーズの方法と言えよう。(これで、ようやく、「ポスト構造主義」を整合的に説明できたであろう。)
 では、本件の問題に戻ると、MEPOにおける相矛盾する両義的様態がポスト・モダン様態ということになった。そして、それに対する、「ポスト構造主義」の方法を二つ見た。
 さて、本件の問題に戻ると、相矛盾するポスト・モダン様態にあるが、一般には、連続的同一性を肯定して、差異共振性を否定するのであるが、その理由は何かである。(そう、ポスト・モダン理論は、結局、真の統一理論に達しなかったと言えよう。)
 これは、これまでの私の説明では、人間は、先験的に、連続的同一性に傾斜しているというものである。これは、確かに、簡単な説明であるし、それで、明確であるが、理論的に説明できないか考察してみたい。
 超越的志向性i⇒-iがある。それは、結局、他者否定的連続的同一性へと転化するのだろう。i⇒-i⇒-(-i)=iである。結局、単純に志向性とは連続的同一性的志向性であると言った方が明快であるようだ。
 そうすると、志向性とは差異・他者への志向性であるという前提が崩壊することになる。これでは、完全に矛盾・齟齬である。
 他者への志向性が、他者否定的連続的同一性志向性へと転化するということだが、この意味は何か。これは、現象化の問題と言えるが、なにか、ここには、錯誤があるのである。
 差異への志向が、現象化においては、連続的同一性への志向となるのである。そう、やはり、投影の問題があるだろう。ヴィジョンの問題である。個iは、他者-iへと自己投影する。それは、個iのヴィジョンであり、他者のヴィジョンではない。
 思うに、超越界・イデア界においては、差異共振的ヴィジョンがあるが、それが、現象化において、連続的ヴィジョンへと転化するということだろう。現象化とは、連続化なのである。つまり、差異への志向性が、現象化においては、連続性ないし連続的同一性への志向性に変換すると言えるのではないだろうか。
 ならば、そこには、メカニズムがあるのである。超越界においては、本来、差異共振性であったものが、現象軸においては、差異連続的同一性へと変換するのだろう。
 つまり、現象的MEPOは、連続的同一性作用をもつといえるのではないだろうか。超越的MEPOは差異共振作用的であるが、現象的MEPOは、差異連続的同一性作用をもつということではないのか。
 結局、現象界とは、連続的同一性が主導的であるということになる。これは、悲劇的である。暴力・狂気・痴愚は止まない。
 そう、ニーチェが大いに悩んだ問題である。賎民が永遠に生じてくるのである。それを、永遠回帰で肯定しようとしたのである。しかし、これは、解決にはならないだろう。ある意味では、グノーシス主義のように、この現象界を否定しなくてはだめだろう。そう、ヨハネの黙示録とは、これへの最終的決着を意味するのではある。
 連続的同一性が主導的になるというのは、思うに、光の生成に原因があるのではないだろうか。内的主体的な物質的光と外的客体的な物質的光が連続化して、現象形態が形成される。この現象形態は、連続的同一性的なのである。つまり、視覚の問題となろう。現象視覚が、連続的同一性の基盤にあるだろう。
 あるいは、現象光の問題である。光の問題である。MEPOを介して、超越光が本来、発せられているのであるが、現象光・物質光に囚われた視覚は、超越光を知覚できないのである。
 「神」の光が見えないのである。ただ、物質現象の光しか見ないのである。精神の光を見ないのである。現象光に眩んでいるとも言えよう。物質的光に眩んでいるのである。
 それこそ、闇である。闇の光である。本来は、精神の光、真如の光が存しているのである。光の光である。
 ここで、プラトンの洞窟の比喩を想起する。洞窟の内部の劇場のスクリーンの前方・正面に縛られた観客、後方の洞窟の外部の光を知らないのである。洞窟の住人の見るスクリーンの映像が現象であり、現象光である。しかし、それは、差異を連続化させ、投影した映像であり、虚像である。いわゆる、現実が虚像なのである。とまれ、虚像と連続化した同一性知覚・認識、これが、無明なのではある。
 光の問題で言えば、超越光は、現象光へと変換する。ロレンスは、dark sunを説き、光は背中を見せていると言った。つまり、超越光の背中が、現象光である。いわば、本体の光の背中を見て、本当の光だと思っているのである。
 そう、洞窟の比喩で言えば、洞窟外部の光、超越光を排除しているのである。否定である。否定・排除・隠蔽があるのである。そして、忘却があるのである。物質的光、連続的同一性の光だけを投影しているのである。
 つまり、超越光を排除して、物質光のみを投影して、視覚・認識しているだけなのである。
 そう、この超越光の排除の力学を問題にしなくてはならない。これが、心の闇を生んでいるのある。とりわけ、現代日本人の心の闇である。現象光だけの社会であり、超越光を憎んでいるのである。賎民の社会なのである。そう、悪魔・悪霊の社会でもある。闇の社会である。
 超越光の排除力学であるが、それは、他者・差異否定的連続的同一性中心主義がなくてはないだろう。連続的同一性が主導的であるとは言え、絶対的に、差異共振性を排除しているわけではないからである。
 ならば、他者・差異否定的連続的同一性中心主義とは、どこから生まれたのか。あるいは、唯物論である。神の否定である。だから、宗教や神秘学的に、悪魔によるというのが、それなりに、明快である。
 では、悪魔とはどこから生まれたのか。ルシファーはどこから生まれたのか。堕天使である。
 ゾロアスター教で言えば、アンリマンユはどこから生まれたのか。闇の誕生である。やはり、ここには、悪意、邪悪さ、憎しみ等があるだろう。
 恵みである超越光に対する悪意があるとしか言えない。では、悪意とは何か。それは、スピノザ哲学的に言えば、反感から生まれる。同一性から生まれる反感である。合一性は、同時に、反感を生むのである。では、合一性中心主義は何かである。
 ここで、少し角度を変えよう。思うに、現象的MEPOにおいて、連続的同一性志向性が発生する。これは、超越界の差異共振性の超越光を否定するようにして、外的光、物質的光である現象光へと志向する。
 この反転のメカニズムが、闇、悪魔・悪霊、悪意・憎悪、物質のメカニズムではないのか。つまり、《光》の反転のメカニズムである。超越光から現象光へと現象的MEPOで転換するのである。
 直観で言うと、眼に外部の光が見えてくる。それまでは、超越光のヴィジョンを見ていた眼である。しかし、それとは別に、外部の現象光が見えてきて、現象ヴィジョンへ転換するのである。
 つまり、超越光と現象光との対立があり、ここで、現象的視覚は、後者を適切・妥当なものとして感得するのだろう。
 そう見ると、二つの視覚があるのである。超越的視覚と現象的視覚がある。あるいは、超越的眼と現象的眼である。言わば、霊眼と肉眼である。そして、現象的MEPOにおいて、切り替えが起きると考えられる。霊眼が弱化して、肉眼が強化される。超越的光から現象的光への切り替えが生起するのである。
 霊的視覚から肉的視覚へと転換するのである。霊視から肉視である。
 視覚の切り替え。視覚の変換。ヴィジョンの変換。本来、超越光が真光であり、現象光は、仮光であるが、現象的MEPOにおいて、逆転するのである。そう、逆転である。眼、視覚、光の逆転のメカニズムがここにはあると思えるのである。
 価値逆転がここに生起しているのである。天使が悪魔となり、悪魔が天使となるのである。綺麗は汚い、汚いは綺麗。Fair is foul, foul is fair.
 そう、現象光視覚は、超越光をおそらく、暗いdarkと見るのである。今風に言えば、汚いと見るのである。そして、現象光を明るいbrightと、綺麗と見るのである。
 現象光視覚は、超越光を嫌い、憎むのである。どうも、これが、本件の問題の真因であるようだ。視覚の逆転である。
 まとめるなら、現象的MEPOにおいて、超越光から現象光への視覚価値逆転が発生するのである。霊視から肉視へと視覚価値逆転が生じるのである。これが、連続的同一性を肯定する真因である。連続的同一性へと傾斜していると言ったが、それは結果であり、真因ではない。そうではなくて、現象的MEPOにおける超越光から現象光への視覚価値逆転のメカニズムによって、差異共振性が否定・排除・隠蔽されて、連続的同一性が肯定されるのである。
 これで本件の問題を解決したこととする。