志向性の終点と現象的メディア・ポイント:他者存在に対する連続的混

志向性の終点と現象的メディア・ポイント:他者存在に対する連続的混濁意識としての現存在


テーマ:哲学


以下、bloghiro-dive氏のハイデガー哲学の梗概である。私は、ハイデガーについては、詳しくないので参考になる。
 そう、私が考えていたハイデガー哲学のイメージとほとんど同じである。ただ、私がハイデガー哲学に疑問を感じるのは、現存在や存在の概念がそれほど斬新なものなのかということである。不安や死に臨む態度(?)等は、既に、宗教や文学で語られてきたものではないだろうか。
 私は、ハイデガーの存在とは、PS理論のメディア・ポイントMEDIA POINT、それも、現象的MEPOであると思っている。そして、これは、連続的同一性的自我においは、明確に意識されていないので、不安や恐怖を引き起こすと思われるのである。
 つまり、現象的MEPOは、超越的MEPOと即非的共振しているので、超越性、宗教性、形而上学性へと通じるのである。これが不明確なので、自我は不安を感じると思うのである。死に臨む態度とは、正に、超越性等への関係に通じるのである。
 先にも述べたが、ハイデガーは、フッサールの志向性(超越的志向性)の終点の構造とその主観的様態において哲学していると思えるのである。確かに、この構造的主観様態は、存在様態を取るだろう。でも、この新しさが私にはわからないのである。
 そう、確かに、フッサールは、ノエシスノエマの彼岸の他者・差異を明確にしなかった。志向性の終点では、他者があるはずである。その他者の存在をハイデガーは捉えようとしたが、その他者の存在に対する主観的様態を現存在として叙述したのではないだろうか。つまり、現存在とは、個・差異・自己が他者の存在に対する主観様態なのである、ということではないのか。
 そうすると、問題は、ほとんど、ポスト・モダン様態である。他者の存在が差異であり、個・差異・自己という主体であるが、それが連続的同一性自我である。つまり、主体をハイデガーは、個・差異・自己と捉えていずに、連続的同一性自我として捉えていたと思う。
 だから、やはり、まったく、ドゥルーズと同じ様態にあったのである。即ち、差異と同一性との連続的様態である。つまり、現象軸におけるメディア・ポイントMEPOの連続的矛盾様態なのである。
 結局、志向性の終点の他者存在をどうするかが、ハイデガーの問題であったと言えよう。しかしながら、これは、カントの物自体の問題と共通だと思われるのである。カントは、超越的形式で連続性を切断して、その形式に限定した。そして、超越的形式の彼岸に物自体が生起したのである。これは、ほとんど、フッサール現象学と似ている発想であろう。
 ただ、フッサールは、超越的形式の彼岸に志向性を求めた点がカントを超えていた点であろう。
 結局、私には、ハイデガーは、連続性の混濁した認識で哲学したように思えるのである。端的に、言えば、物自体を存在に言い換えているだけのように思えるのである。単なるレトリックではないのか。私には、ハイデガーは、20世紀のソフィストに思えるのである。
 もっとも、評価しうるならば、フッサールがあいまいにした、志向性の終点に存する他者を把握しようとした点ではないだろうか。

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言語についての差異と反復第十七章・総論第十三節
さて、「存在と時間」を鳥瞰した。ここで、ハイデガーの残した功罪を語らねばならない。まず、昨日示唆しておいたが、ハイデガーは「存在と時間」以後、現存在の考察を積極的にすることはない。この大著以後、ハイデガーは「存在と非存在」についてのみ思索を継続する。これは、「存在と時間」の帰結としては当然のことで、当初からハイデガーは「存在と時間」で、現存在の様態を規定する「存在そのもの」を明白にすることが終点だとしていたからだ。しかし、「存在と時間」では現存在の様態の考察及び、現存在を実存させる時間性(死へ向かうあり方)」を開示するに終わった。これでは「存在そのもの」が定位されたといえず、そのためハイデガーは終世、「存在そのもの」というものへの思索を続けることになる。ここで、昨日私は「存在と時間」は、実は存在を語るために、死を語ろうとする試みに相違ないといったことを思い返してもらいたい。この原理論の序論から述べているが、存在者を証明するということは、当該存在者のみで充当するような論理の構成は矛盾をはらみ、不可能である。それゆえ、ハイデガーが現存在を実存たらしめる「存在そのもの」を語ろうとした当初の目的は、存在と真逆の「非存在」を語るほかない。そのためには、非存在を定義する必要があるが、「無いものを語る」行為とは論理矛盾以外なにものでもない。それゆえ、ハイデガーの「存在と時間」は、新しい主体=現存在として人間を定位し、実存という視座を古典的主観論と取り替えたことは、間違いなく有意義であるが、存在論としては未完の域を脱していない。否、「存在そのものを定義するために非存在を定義しなければならない」という、さらに困難な問題を残したといえる。このようなコンテクストを念頭に考えると、「存在と時間」とは「生と死」や「存在と非存在」、「現存在と非存在」というタイトルに置き換えて読むこともできよう。このように、残された問題のひとつは、「存在そのもの」が定義されなかったこと。そして、もうひとつは「現存在と存在」の関係において、存在そのもの側が現存在の実存(あり方)を規定するのか、現存在の実存が存在を規定するのかという問題である。簡単にいうと、現存在が実存するがゆえに存在を語ることが可能なのか、存在そのものという概念が先行してあるがゆえに現存在の実存を語ることが可能なのかということである。俗言的にいえば、「鶏が先か卵が先か」というようなこと。これについて、ハイデガーがどのように考えていたかは見解の分かれる部分だが、「存在と時間」の立場でいえば、現存在の実存が先行するという捉え方が普通であろう。しかし、後世、「存在と非存在」を思索するハイデガーは、この問題を「性起=Ereiknis」という用語で呼び、同時的、双方向的と捉えようとする。そのため、この部分は曖昧であり、どちらとも読める。専門的には、「性起=Ereiknis」という概念を使用した時点を分岐点と考え、「存在と時間」のときは現存在の実存が存在を規定できる(語ることができる)と考えていて、「性起=Ereiknis」をもって、逆に存在そのものが現存在の実存より先行、規定するのだという思索の転回(ケーレ)をいう場合もある。しかし、存在が先であろうが、後であろうが、存在を語ろうとすると非存在を語ることが必要となるのであるから、この思索は遭難者のごとく現存在の実存から離れ、詩的な世界観を漂うことになる。そのため、後期ハイデガーの思索は詩的かつ、非常に読み解くことが困難で、その読みに現在でも意見が分かれている。長々と問題点を語ったが、整理すると、ハイデガーの残した問題は、「存在そのもの=非存在」を定義できなかったこと。また、現存在と存在そのもののどちらがアプリオリな概念なのかを定位できなかったこと。これは、現存在が存在=非存在を語ることができるのか、無理なのかと言い換えて考えていい。そして、最後にこれが大きな後の哲学の課題となるのだが、ハイデガー以前の実存性のない(人間味のない)認識論的主体から、人間を新たに現存在と定位したことで実存という地平=視座(考え方)を開いたが、これは実はデカルトやカントの嵌った罠と同じものであった。その罠の意味とは「万人妥当」という概念のことである。後世、レヴィナスハイデガーの哲学には「他者がいない」と批判したが、まさしく現存在=人間一般とすることで、個としての実存が捨象されてしまう。逆説的だが、ハイデガーは「今」、「ここにいる」、「誰でもない私」を現存在という概念で表現したのだが、結果的には「個=ケース=誰でもない私」という他者性を消去してしまった。実存がそれぞれの個のものであるにもかかわらずである。それゆえ、ハイデガーの後に続く哲学者たちは、この「他者性」を哲学から取り戻すことを中心的課題としてポスト=モダンと呼ばれる思索を展開させてゆく。また、他方ではハイデガーの「現存在と存在そのもの」という思考方法を引き延ばして、世界の現象を構造的に表層と深層で把握しようという構造主義というムーブメントも起こる。このように、ハイデガーの「存在と時間」に端を発し、現代哲学、学問全般があり方を問われることになった。次週は、ハイデガーの後に残った課題をどのように現代哲学、社会科学が乗り越えようとするのかを考察したい。
★回顧★
いささか乱暴にハイデガーの「存在と時間」とそれ以後の思索を鳥瞰したにすぎないが、内容的には全覧できたのではないかと思う。ハイデガーは、哲学史を遡行し「解体」することを目標に「存在と時間」を書き、そして実際にニーチェアリストテレス、フォアゾソクラティーカ(ソクラテス以前の哲学者)でその「解体」を実演してみせる。ハイデガーは、ソクラテスプラトンに始まる西洋形而上学の歴史とは「存在忘却」の歴史だとして哲学史を再構築するのである。そして、本質存在(〜である)ではない、事実存在(ある)という存在そのものを問い続ける。が、本文でも指摘したとおり、自己を語るのに他者が必要なように、存在そのものを語るには非存在を語る必要があり、「性起=Ereiknis」論などをもちだすこととなる。いわば混乱状態といっていい。また一方で、パルメニデスのいうように「あらぬものについては語れぬ」ということがハイデガーを悩ます。同時に、現存在そのものに存在がそもそも開示されるのかどうかというものも問題となる。開示されるとなると、現存在が存在を規定できる立場になり、存在そのものよりも先行してしまうからである。そのため、「存在と時間」以後は、現存在というものを語ろうとしない。また、ハイデガーの構築した「存在論」としての哲学史は、レヴィナスなどは暴力だという。このコンテクストは簡単に受けとめるわけにはいかない。確かにハイデガーは、それまで支配的だった哲学史観を一変させてみせ、「存在論」という地平を開いたが、それは他方で別の解釈を疎外しかねないことにもなる。また、人間を現存在一般で呼ぶことにより、個の存在を消滅させてしまったことは事実である。それゆえ、後世デリダハイデガーの後を追い、哲学史の再再構築を右往左往しながら進めることになる。「存在と時間」は、確かにハイデガーの目論見を破って失敗には終わったが、哲学を一変させたことは事実であり、ハイデガーの「存在論」によって後世の実存主義ポストモダンに大きな影響を与えたことは否定できない。ただし、一方で忘れてならないのは、ハイデガーは「存在そのもの」を語り得たとはいえないということである。これは逆説的に、存在を語る行為そのものがいかに困難なものかということを反証しているだろう。
http://ameblo.jp/bloghiro-dive/entry-10033019627.html
差異と反復それでも差異と反復