同一性中心主義の解明:同一性中心主義と感情欲望との癒着による他者

同一性中心主義の解明:同一性中心主義と感情欲望との癒着による他者・差異に対する非合理な排除


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


昨日、本件の問題に触れて、再び、袋小路に入ってしまった。アポリアである(アポリアは、語源的は、「通れない」から来ているから、適語である。)。
 さて、今日、本件について、新たに思いついたことがあるので、ここで披瀝したい。
 自己は、本来、他者への志向性をもち、他者を感知するが、そのとき、同一性の認識を投影するのであるが、そのときには、差異(自己の差異であり、他者の差異である)と同一性とを均衡させるのである。
 問題は、他者に対する同一性認識であるが、そのとき、身体感覚を介するので、同一性認識に感覚様態が付着すると言えよう。同一性認識とは、自己が他者への投影する認識であり、この投影は当然視覚的であるし、また、その他の感覚も関係する。つまり、他者に対する同一性認識とは、感覚的同一性認識である。あるいは、同一性感覚的認識である。
 この感覚的認識性が問題である。自己の差異と身体・感覚とはどう関係するのか。あるいは、精神と身体・感覚との関係である。どうやら、ここに問題の核心があるだろう。
 心と身体・感覚との関係である。(スピノザでさえ、この問題を徹底して考察していないと思う。)心ないし精神が端的に、志向性である。心・精神=志向性である。
 しかるに、現象的MEPOにおいて、身体・感覚が形成されて、志向性は、身体・感覚化されるのである。同一性的認識とは、この身体・感覚に拠ると考えていいのではないだろうか。身体・感覚以前は、i*(-i)であるから、端的に、差異そのものである。自己差異と他者差異との即非共振性(デュナミスではあるが)があるのであり、同一性はないのである。
 同一性は、身体・感覚様態をもつことによって発生したと考えられる。即ち、感覚像とは、主体が同一性形態を投影して形成される同一性像であろう。(ここで、アフォーダンスを想起するが、ここでは、考察しない。)
 分析すれば、主体の身体・感覚において、同一性形態が発生する。これが、連続的同一性形態である。原形態性ないし原言語形態と言えよう。思うに、ソシュールが述べた差異であるが、原観念(原シニフィエ)と原音声(原シニフィアン)との二元論であるが、これは、ここに関係すると思えるので、それを使用すると、身体・感覚的同一性形態素と観念的同一性形態素がここにある。まとめて、身体・感覚/観念的同一性形態素(構造と言っていいだろう)となるが、簡略化して、感覚/観念同一性素としよう。
 これが、結局、他者志向性において、他者へと投影されるのである。つまり、感覚/観念同一性素が他者へと投影されて、同一性認識が発生するのである。
 思うに、本来、差異としての主体的精神ないし心は、他者への志向性であるから、この感覚/観念同一性認識を利用するが、それとは区別されているのである。即ち、

1)差異的主体精神⇒2)感覚/観念同一性認識⇒3)他者

である。
 問題は、2において発生する感情や欲望である。仏教で言う色(しき)である。他者へ遭遇した差異的主体精神は、2において感情・欲望を発現するのである。
 この感情・欲望が実に単純であり、快・不快の二元論を形成するのである。綺麗と汚いである。美と醜である。
 しかし、問題は複雑である。2は、いわば、《メディアMEDIA》である。だから、単に、感覚/観念様態だけでなく、端的に、1の様相をもっているのである。つまり、精神様相が2にもあるのである。
 つまり、精神と感覚/観念同一性とミックス様態が2の《メディアMEDIA》において生起しているのである。このミックス様態が問題なのである。
 とまれ、先に、感情・欲望様態について言うと、この快・不快の二元的判断は、正に、感情・欲望的判断であり、理性・知性的ではありえない。この没理性的好悪判断がMEDIAに生じているのである。これは、非合理な判断と言ってもいい。
 では、この非合理な判断をもったMEDIAであるが、そこには、1の主体的精神に基づく同一性認識作用もある。すると、2のMEDIAにおいて、主体的精神と同一性認識と非合理的判断がミックスされる様態が生じると考えられる。
 本来、主体的精神は差異であるから、他者との差異を保持しているのである。つまり、2のMEDIA領域において、主体的精神の志向性と感覚/観念同一性認識と非合理的感情・欲望様態とが並存しているということである。
 本来の知性・理性、根源的知性・理性は、主体的精神の志向性にある。根本知性、根本理性と呼ぼう(もう、知性と理性は区別しない)。根本理性は、差異への志向性作用であるから、MEDIA領域(MEDIA帯、MEDIA FIELD、メディア場)においても、本来、その性格を保持すると考えられる。
 しかしながら、非合理的感情・欲望様態が優勢になると、当然、根本理性は麻痺して、差異的自己認識が喪失されて、感覚/観念同一性認識と非合理的感情・欲望様態とが癒着・融合するようになるだろう。
 私がこれまで、連続的同一性中心主義を攻撃してきたが、その形成因はここにあったと今や考えるに至ったのである。
 MEDIA場における非合理な感情・欲望様態が、根本理性を麻痺させて、感覚/観念同一性認識と癒着結合したものが、正に、連続的同一性中心主義なのである。そして、これが、唯物論的意識であり、近代的自我なのである。
 根本理性の麻痺が、ここにあるのである。物質的感情・欲望様態が同一性認識と結合して、他者喪失の近代的自我と生んだのである。ゴヤは、理性の眠りは怪物を生むと言った。
 思うに、仏教は、この非合理な感情・欲望様態からの解脱を説いたのであるが、それが生きていないのである。また、フッサール現象学的還元、エポケーもそれを説いているし、デカルトの懐疑もそういう性質をもつだろう。
 そう、近代主義とは、人間が生来もつ根本理性・根本知性の喪失を意味するのである。
 では、ここからのエクソダスの方法は何であろうか。最近、ヨガが流行っているが、それは、その方法の一つである。
 問題は、MEDIA場の非合理な麻痺・混濁・混同を解消することにあるのである。このMEDIA場の非合理な麻痺とは、非合理な同一性中心主義ということである。ここでは、快・不快の非合理な同一性中心主義的判断によって、差異的精神が否定・排除・隠蔽されているのである。根本理性である差異的精神への反感・憎悪・排除があるのである。
 これで、この問題が解明されたと言えよう。何故、他者を否定するのか、という問いに対して、解答は、MEDIA場の非合理な快・不快の感情・欲望的同一性自我中心主義が他者を否定するからであるということになる。
 より端的に言えば、非合理な感情・欲望様態的同一性中心自我とは、その非合理性に対して異議を唱える根本理性・差異的精神に対して反感・憎悪・暴力をもって、否定・排除・隠蔽行為を行うのである。これが、正に、他者排除の力学なのである。簡単に言えば、気に入らないものは、無化するということであり、暴力団論理なのである。これが、現代日本の支配している力なのである。人間が本来もつ根本理性の完全喪失である。明らかに、劣化・退化があり、動物化しているのである。これは、明らかに、日本滅亡の徴である。
 さて、以上のように、MEDIA場の感情・欲望による非合理な同一性中心主義が根因となったが、これを解消する方法を述べなくては不十分である。 「問題は、MEDIA場の非合理な麻痺・混濁・混同を解消することにある。」と上述しているのであるから。
 端的に言えば、MEDIA場の知的浄化・精練・鍛練が必要である。このためには、哲学、宗教、芸術が必要である。MEDIA場に知的ないし精神的切断をもたらして、非合理的同一性中心主義を解体する必要があるのである。
 ポスト・モダンは、本来、それを目指していたが、後期デリダを除いて、連続的非合理主義から脱出できなかったと言えよう。
 差異と同一性との均衡・調和、ここにトランス・モダン社会の原理があると言えよう。差異との均衡によって現象界は救われるのである。
 そう、ここで、発展的問いとして、なぜ、現象化があるのかと考えると、それは、差異的認識(広義の認識で、創造表現を含める)のためであろう。プラトンは、想起と言ったが、それは、後ろ向きな考えである。確かに、ある意味では、想起のためである。しかしながら、イデア界の差異共振性を、現象界において、創造的に表現することが、現象化の本当の意味のように思えるのである。単なる想起ではなくて、想起して、その内容を実践的に現象創造表現することだと思えるのである。ここでは、認識と創造表現は一つである。そう、認識、創造表現、倫理は一つである。イデア界的認識=創造表現=倫理実践のために、現象化があるのである。


p.s. 結局、連続的同一性中心主義という悪魔・悪霊とは、非合理な感情・欲望様態と同一性認識の融合である。思うに、これは、正に、父権制である。父権醜主義である。日本の官僚・政治家のタイプである。日本は、ベースは母権制であるが、これが父権制によって破壊されているのである。
 そう、狂気は、非合理な感情・欲望様態に基因があるだろう。人類史的に見ると、この連続的同一性中心主義が、諸国家を滅ぼしてきたのだろう。ローマ帝国の崩壊もそうだろう。平明に言えば、傲りである。驕れる平家久しからず。
 とまれ、連続性の原因は、やはり、非合理な感情・欲望様態にあると言えよう。そこから自我が形成されるのであるから。この非合理な感情・欲望様態のもつ連続性の破壊が、とりわけ、日本に必要なのである。
 もう少し補足すると、連続的同一性中心主義に資本主義的貨幣社会が結びつくのである。前者を満たすものは、貨幣である。金融資本である。
 以上のように根本的、ラディカルな解明がなされると、トランス・モダン経済はどのようなものであるべきかわかってくるのではないか。一言で言えば、物質中心の経済から精神と物質とのバランスのとれた経済を志向するべきであるということになる。精神・物質経済である。そのためには、教育超革命が必要であるし、また、根本的には、PS理論的世界観革命が必要である。
 とまれ、精神・物質経済の価値はどう計るのか。精神・資本経済において、精神・資本の価値はどう計られるのか。思うに、精神ー物質的認識をもった者が指導的な立場に立たないといけないことになるだろう。貨幣・資本の数量だけでなく、精神ー物質の相関的認識をもつ人間が指導的立場に立たないといけないということである。


p.p.s. もう少し補足しよう。非合理な感情・欲望的同一性自我様態が、連続的同一性自我の正体であるが、非合理な感情・欲望性が差異的志向性を麻痺させることが、「狂気」の根因である。
 ならば、非合理な感情・欲望性とは何か。これが、プラトンの言った黒い馬である。しかし、プラトンは、それを単に否定しているのではなく、白い馬との二頭立ての馬車を御者が制御することを説いている。白い馬は、差異的理性であろう。だから、プラトンにおいても、差異と同一性との均衡が目されていると言えよう。
 問題は非合理な感情・欲望のもつ狂気性をどう制御するのかである。古代ギリシア人は、ディオニュソスの祭儀をもった。ギリシア悲劇は、ディオニュソス神に捧げたものである。
 そう、端的に、祭礼・儀礼等は、人間の非合理な感情・欲望を、理性的枠組みの中での、解消方法であったように思える。今日日本では、ニートたちの、戦争衝動である。それも解消方法である。
 どうも、ここには、自由の問題が関係していると思う。昔は子どもに遊びがあった。自由な時間や空間があったが、現代は、なんらかに管理された時空間しかない。
 かつては、遊びにおいて、非合理な感情・欲望を、遊びの枠組みにおいて、解放し解消していただろう。現代では、ゲームだろう。
 そう、ここには、他者としての身体の問題があるだろう。身体問題を考察しないといけない。自己が他者である身体と共振するとき、コスモスが発動する。コスモス的身体ないしコスモス的心身となる。ここでは、超越的エネルギーが発動するのである。
 この心身エネルゲイアを創造的に表現する必要があるのである。私の哲学的思考は、この心身エネルゲイアの理論化と言えるのである。
 思うに、だから、単に非合理な感情・欲望に囚われているだけでなく、コスモス的なエネルゲイアが発動されずに、抑圧されていると言えよう。そのため反動はとても強力なのである。連続的同一性狂気・暴力である。この点は、これまで指摘したことである。
 結局、非合理な感情・欲望と抑圧された反動化したコスモス的エネルゲイアの融合が、連続的同一性中心主義の基盤となっているのである。
 つまり、非合理な感情・欲望は、現象的物質的同一性形態に知覚を限定する。そして、この同一性主義が、同時に、差異的共振的コスモス的エネルゲイアを抑圧するのである。
 即ち、非合理な感情・欲望は、他者的志向性である差異的理性を否定すると同時に、同一性主義によって、差異的共振的エネルゲイアも否定しているのである。つまり、根本理性と根本エネルゲイアを否定しているのである。すると、それらを一つにして、根本理性エネルゲイア(根本理性エネルギー)があるということになるだろう。この否定・抑圧が、連続的同一性中心主義の狂気の発動原因である。そして、この狂気暴力が現代日本のアポカリプス・黙示録の原動力なのである。近代主義の嫡子である。
 繰り返すが、現代日本を救済するには、MEDIA FIELDの浄化・精練が必要である。MEDIA FIELDに切断線を入れて、差異と同一性の連続性を解体して、それから、差異の特異性、絶対的差異へと進展して、さらには、超越的差異共振性へと飛翔する必要があるのである。MEDIA FIELDを不連続的に浄化・精練して、D差異と同一性とを分離して、差異を特異性から超越化し、さらには、共振化させる必要がある。そして、それから、同一性との均衡を形成して、差異的同一性としての自己認識を形成する必要があると言えよう。
 認識革命、観念革命、精神革命が必要である。トランス・モダン革命である。