不連続な、超越的差異共振性とは何か:超越性はどこにあるのか

不連続な、超越的差異共振性とは何か:超越性はどこにあるのか


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


今日は余裕がないので、簡単に触れるが、端的に、超越性とは、経験論的には、どこに存するのかという問題である。これは、以前少し述べたことがあるが、あらためて考えてみよう。
 超越性とは、メディア・ポイントを介して、経験論的に存しうると言えるのではないだろうか。私は以前、内在的超越性ということを言ったが、それは、連続論なので、使えないのである。
 これは、実は微妙な問題である。連続性は、複素平面の実数軸上にあると言えよう。構造主義ないしポスト構造主義は、超越性を実数軸上に留めてしまっていると言えるだろう。つまり、実数軸のゼロ点・原点に超越性を留めている。だから、超越性を連続化してしまっているのである。
 つまり、メディア・ポイントと実数軸上の同一性を連続化させているのである。この連続性において、内在的超越性という考え方が生まれると考えられるのである。
 しかし、不連続化が為されると、メディア・ポイントと同一性が分離するのである。この分離を経験論的に説明したいのである。
 思うに、これは、それまで、連続化によって、同一性と結びついていた、超越性が純粋化することである。この超越性の純粋化とは何か。
 これは、実数軸上のゼロ点が、虚数軸上のゼロ点へと転化することだと思う。では、実数軸上のゼロ点・原点とは、何なのだろうか。
 実数軸上のゼロ点とは、常に同一性的志向が作用する場である。しかし、不連続化して、同一性から切断すると、超越性が純粋化する。ということで、実数軸上のゼロ点とは、超越性と同一性との二元性の存する領域であるということである。しかし、より正確に言えば、連続的同一性への志向性があるので、超越性と同一性とが連続化している二元的領域ということになる。
 さて、そう考えると、不連続化による超越性の純粋化の意味が明確になるだろう。それは、上で述べたように、実数軸上のゼロ点が虚数軸のゼロ点へと転換することである。というか、実数軸上のゼロ点とは分離した、虚数軸上のゼロ点が生起するということである。つまり、実数軸のゼロ点と虚数軸のゼロ点の不連続な併存がここに生起したことになるだろう。
 問題は、実数軸上のゼロ点(実ゼロ点)と虚数軸上のゼロ点(虚ゼロ点)との関係である。これも既に述べたように、即非関係である。つまり、内在と同時に、非内在なのである。これは不思議な事象である。存在するようでいて、存在しないのである。思うに、デリダが痕跡という概念で意味したのは、この即非事象ではないだろうか。
 では、本稿の眼目である超越性の経験性について考えよう。不連続化によって、超越性が純粋化される。そして、この純粋超越性は、なんらか、感じられるものである。つまり、心身において、純粋超越性を感受しているものがあるのである。
 内的身体性と言ってもいい。チャクラと言ってもいいだろう。つまり、超越性を感受する領域が、心身性・内的身体にあるということである。
 つまり、人間とは、単に現象界に存するというよりは、超越界にも存しているのである。イデア界が存するのである。しかし、即非的にである。
 この即非イデア界があるから、外的な現象界において、超越界・イデア界を、あるとき、特異なときに、直覚することがあるのではないだろうか。思うに、神秘主義の経験とは、実は、なんらかの原因で、超越界・イデア界が流入したときの経験ではないだろうか。ネオ・プラトニズムの流出という概念も同じことだと思う。それらが問題なのは、連続化していることである。
 ここで、本稿を終えることにする。

p.s. 簡単に補足すると、虚数軸とは、超越的精神界(霊界・神界・仏界)であり、超越性とは、霊性・神性・仏性ではないだろうか。おそらく、実数軸は、現象軸・物質軸であり、身体軸である。つまり、虚数軸=精神軸と実数軸=身体軸との交点であるメディア・ポイントにおいて、心身性(又は、チャクラ)が生起する。心と言った場合、確かに、メディア・ポイントを意味するだろうが、しかしながら、身体性に引かれるので、連続化するのである。自我心となるのである。
 とまれ、霊性と身体性との交叉があり、ここを通常は意識と呼んでいるのだろう。しかし、近代意識は、霊性を否定しているのである。つまり、近代合理主義は、同一性という枠組みで、現象を仕切る、支配するのである。それは、現象性における同一性志向性の傾斜に拠るのである。そして、それ以外の霊性を完全否定するのである。
 そう、身体性や物質性に傾斜しているのである。不思議なのは、存在する霊性を否定することである。だから、二重人格的である。霊的人格と身体的人格である。人間が、宗教に縋るのは、個において、霊的人格を処理できないからだろう。
 とまれ、霊性を認めるとどうなるのか。思うに、現象界・現実が、霊界という基盤・「インフラ」の上に成立したものであることがわかるだろう。そう、意識とは、霊性と同一性との交叉点であり、前者に、プライオリティがあるのであるから、霊性の変容としての同一性認識があることがわかるのではないだろうか。つまり、現象認識とは、霊界認識の一変容である。霊的認識が基盤であり、それが、現象認識しているのである。つまり、端的に、有り体に言えば、われわれの意識とは、霊性そのものではないのか。霊性が曇ったもの、混濁したものではないのか。
 あるいは、霊的層と身体層があるのであり、近代では、身体層から見ていて、霊的層が埋もれているのである。身体層は早晩無くなることになる。そして、霊的層が残るのである。これが死である。しかし、霊的層は、身体的層を介した記憶をもっているだろう。だから、この経験記憶を、霊界の理念と比較するだろう。そして、その歪みを修正するのではないのか。
 とまれ、死とは身体の消滅であり、意識は永遠である。永遠意識と呼ぼう。これが、霊的意識である。後で、緻密に検討したい。