同一性欲望の発生の原因について:西洋文明の同一性中心主義とトラン

同一性欲望の発生の原因について:西洋文明の同一性中心主義とトランス・モダン


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


現代世界を満たしている、あるいは、近代になってからの悲惨な戦争の原因は、人間のもつ同一性欲望(悪魔)に拠ることは間違いない。
 では、どうして、これが、とりわけ、近代において強大化したのか。私の直観では、キリスト教に問題があるのである。というか、理性主義にあるのである。
 否、精緻に言おう。理性同一性主義にあるのである。デリダがロゴス中心主義と言ったものに相当する。理性に問題があるのでなく、理性同一性主義、同一性主義に問題があるのである。デリダが現前と言ったものは、同一性主義であろう。 
 これは、自己認識方程式i*(-i)⇒+1で言えば、iの肥大化なのである。iが他者-iに対して、自己投影して、他者を同一性化するのである。
 iである原主体ないし主体は、同一性を求めるのである。同一性認識を求めるのである。言語認識である。Xは何か。Xは山である。これである。iは、同一性・言語認識を求めるのである。
 しかし、光認識は、他者を認めている。Xがある。Xが存する。これは、差異的直観である。i*(-i)の直観である。このi*(-i)がイデアである。これが、現象化してXとなっているのである。直観は、i*(-i)⇒Xを直覚するのだろう。
 結局、言語認識は、直観認識とは別に、同一性所有認識なのである。自我所有認識なのである。貪欲である。「自己」を他者に付与するのである。「自己」を押しつけるのである。Xは山である。Xに山を押しつけているのである。
 これを連続的同一性欲望と呼ぼう。同一性形式を他者に投影するのである。ということは、元々、iには、同一性形式(一般形式と読んでもいいだろう。チョムスキーのいう普遍文法は、これと関係しそうである。)が内在しているということになるのではないだろうか。
 つまり、直観においては、主体は、他者を他者として認識する。光認識である。しかるに、主体に内在する同一性・一般形式認識は、それを否定するようにして、他者に同一性の枠組みを押しつけ、主体的自我を肯定するのである。即ち、二項対立がここに形成されるのである。
 そのように考えると、主体iには、元来、差異共振志向性と差異否定的同一性志向性の矛盾した二重の志向性があるということになるのではないだろうか。問題は、後者をどう説明するのかである。否定的同一性とはどういう事態なのか。直観で言えば、それは、内なる他者を覆う(凌駕する)ようにして一体化するということではないのか。この覆うであるが、それは、否定であるが、同時に、一体化である。言い換えると、全体化である。ヘーゲルの理性である。
 これが、否定的同一性志向性である。このとき、主体は言語形成によって、同一性を完成させるのである。他者Xは、山である。しかしながら、どうして、外的他者を言語化するのか。それは、同一性的衝動があるからである。他者を否定して、主体に同一性化する衝動があるからであろう。山と呼び、他者Xを主体的同一性化するのである。そして、このとき、差異共振的直観は、疎外される。
 とまれ、ここで、主体的同一性形式と差異共振直観が併存している事象が生じている。カントは前者を超越的(先験的)形式にして、また、後者を物自体にしたと言えよう。
 では、本稿の主題である同一性主義の発生を考察しよう。思うに、西洋文明は、主体的同一性形式への志向に傾斜している文明と言えよう。それを、デリダはロゴスと呼んだのである。
 問題は、主体的同一性形式と差異共振直観が共存せずに、前者が後者を駆逐するような事態の発生にあると言えよう。フッサールの『危機』の問題意識がこれである。そう、近代主義とは、正に、そういうものなのである。何故、前者が中心化したのか。
 これはいくつか原因が考えられるが、思うに、西洋語のもつ主語+述語形式が一つの要因だと思われる。つまり、主体主義的偏重があるのである。
 また、キリスト教がロゴス化されていたことも大きいだろう。ロゴスの受肉としてのイエス・キリストである。言語、宗教的に、同一性主義に傾斜していたと言えよう。また、哲学・論理学が、同一性主義であった。アリストテレス論理学がそうである。
 結局、少なくとも、言語、宗教、哲学によって、同一性主義の傾斜が西洋文明にはあったのであり、それが、近代において、物質経済、印刷術、近代科学の発達とともに、一挙に、全面化したと言えよう。これで、本稿の問題を解明したこととしよう。
 肥大化した同一性中心主義を乗り越えることが、トランス・モダンの役割である。これは、否定された他者の肯定であり、差異共振性の復帰である。ポスト・モダンは、これを目指したものであった。
 ここで実に不思議なことに、差異、他者、身体を肯定するとは、物質を超えて、イデア界を肯定することになることなのである。超越界の肯定となるのである。主体のもつ同一性は、これとは背反的である。相容れないものである。
 結局、主体的同一性が差異を否定するのは、当然と言えよう。同一性には、差異は理解できないからである。しかしながら、主体は、差異共振直観をもつので、ここから、差異、他者、身体へと転ずるのである。主体は、同一性を脇に置き、差異を測深し探求するのである。
 ここで、同一性と差異との関係が問題になるのである。ここに不連続化の意味があるのである。同一性から差異を不連続化すること、これによって、一挙に、問題の核心に達するのである。差異と同一性との分離が為されるのである。
 これまでは、同一性と差異とを連続化させていたので、この関係が不明確であった。しかし、不連続化によって、差異が差異として独立したのである。
 そして、主体の差異と他者の差異との共振作用が確認されるのである。そして、この共振様態には、超越性が関与しているのがわかったのである。
 差異と同一性の関係は、結局、鈴木大拙即非の論理に結晶していたのであった。これは、また、超越界の論理である。
 結局、プラトニック・シナジー理論によって、西洋哲学は、同一性中心主義の宿痾から超脱し、また、東洋思想・哲学は、差異の哲学として、進展したと言えよう。

p.s. D.H.ロレンスが、『無意識の幻想曲』で述べていたが、無意識は、四元的だが、基本にあるのは、共感性と自立性であった。これを上述の視点から見ると、共感性とは、差異共振直観であり、自立性とは、連続的同一性である。また、ロレンス一流の神学に拠れば、「父」が自立性であり、「子」が共感性であり、「聖霊」が両者の均衡である。
 ここで、不連続的差異論の初期段階で、私は差異における垂直性と水平性を述べたが、それは、発展しなかった。今考えると、垂直性とは同一性であり、水平性が差異性である。用語としては、ミスリーディングであるが、真相はそうだろう。つまり、私が考えた垂直性とは自立・独立性なのであり、また、水平性とは、他者との共感的関係を意味したのであるから。
 思うに、差異のもつ即非極性と呼べよう。そう、ヘミングウェイの短篇に、この即非極性を表現しているものがあった。タイトルが思い出せない。「男女」であったか?