日本人を抑止している近代主義ないし構造主義:ポスト・モダンは構造

日本人を抑止している近代主義ないし構造主義:ポスト・モダンは構造主義の展開に過ぎなかった


テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築


ほとんど既述のことであるが、近代主義ないし構造主義から脱しないといけない。ポスト・モダン、とりわけ、「ポスト構造主義」は、構造主義の展開に過ぎなかった。デリダドゥルーズ哲学とは、完全な構造主義哲学である。
 プラトニック・シナジー理論は、構造主義の閉塞からの脱却を説いているのである。
 現代日本人の意識は、近代主義ないし構造主義的である。実数的超越性にしろ、虚数的超越性にしろ、超越性を喪失しているのである。微分的思考に留まっているのである。脱微分的思考が必要である。おそらく、日本文化のもつ内在性が、縛りになっているのである。
 超越性の思考をもたないといけない。ハイデガードゥルーズデリダの構造的哲学から脱却しないといけない。彼らは、近代主義の罠である。近代主義の悪魔的理論である。ニーチェフッサールの開いた超越性への出口(「門」)を閉ざしてしまったのである。
 さて、超越的差異論であるが、それは、天使論に通じると思われる。問題は、身体性である。天使に身体があるのか。言い換えると、超越的差異に身体性はあるのか、である。
 肉体はないのは、当然であるが、身体性の有無である。結局、メディア・ポイントMPの問題である。MPに、身体性があるのか、どうかである。MPは、言わば、霊と知の交叉するポイントである。
 では、身体性との関係はどうなのか。これは、心身問題でもある。結局、身体をどう考えるのかであろう。i*(-i)⇒+1の左辺は、形相と質料の即非と見ることができる。だから、MPにも、一種身体性はあると言えよう。しかし、それは、原身体性と言うべきものだろう。
 ということで、天使には、原身体性があると言えよう。『光』の身体性とも言えよう。
 今は、ここで、留めたい。

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性sexとは何か:視覚と共振性と触覚:視触覚としての性


テーマ:プラトニック・シナジー理論


性とは何か、考えたい。
 これは、根源的には、イデアの差異に拠ると思われる。iが男性ならば、-iが女性である。このような二元性は、もう済んでいることである。
 私が問題にしたいのは、経験論的な性である。iが視覚なら、-iは触覚であり、後者が単純に見ると、性になるだろう。しかし、それは、単純過ぎよう。
 性には、明らかに、差異が必要である。同性愛の問題があるが、私見では、同性愛も異性愛の変異であるので、ここでは、異性愛を見ると、明らかに、差異がなければ、異性愛は成立しない。もっとも、ここでは、異性愛というより、性を問題にしているのではあるが。
 とは言え、やはり、性は、単に、触覚の問題ではないと思う。ここで、谷崎の名作『春琴抄』を想起するが、しかし、盲目であっても、盲目の世界の中で、他者(性的他者)を、触覚的に認識しているのではないのか。つまり、触覚的視覚(触視覚としよう)があるのではないだろうか。
 触視覚こそ、性の基盤ではないだろうか。というか、触視覚が性へとある意味で特化されていると思う。だから、性とは、触視覚と言えそうである。そうだからこそ、性は、差異であり、同一性化することはないのである。他者と同一性化したとき、そこには、性はない。
 エロティシズムは、だから、差異であると言えよう。だから、倫理に似ているのである。カント哲学は、最高度にエロティックであると言えよう。プラトン哲学のエロースは、正に、天使的エロティシズムである。
 ここで、官能性とエロティシズムを区別しないといけない。官能性は、肉体の生殖のための構造から来ているのではないかと思う。若い女性の裸体を見て、性欲をそそられるのは、それは、まったく生殖構造から来ていると思う。
 エロティシズムとは、本来、異なるのである。今日、両者が混同されているだろう。
 そう、バタイユが、エロチシズムとは、死に至るまでの生の歓喜であると言ったが、それはどうだろう。それは、性欲的発想だろう。それは、エロティズムではないと思う。
 視触覚的差異、これが性であり、エロティシズムであると思う。
 では、タイトルに出した共振性との関係はどうなるのだろうか。もう、簡単である。共振性が性であり、エロティズムである。
 そう、エネルギーを共振性とするなら、自然は、実に、性的であり、エロティシズムに満ちたものである。そして、相対性理論量子力学も性的であり、エロティズム的である。
 思えば、性という字は、自然性を意味しているのだ。自然(じねん)でもあり、古代ギリシアのフュシスに近いだろう。弁証法は、反エロティズムである。対極性、即非性は、エロティズムである。仏教や東洋思想がエロティズム的なのは、必然的である。

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メディア・ポイントMedia Pointの様相について


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


明日野氏が、オイラーの定理微分が、時計と反対回りの1/4回転を意味することを発見したことの意味は大きい。
 私は、以前から、メディア・ポイントMedia Point(以下、MP)の回転が、現象界を形成すると予想してきたからである。
 例えば、ヨガ理論で、クンダリニー(エネルギー)が三回転半を意味するというのが、このことと関係していると推察できるのである。ここでは、今、簡単に予見を書いてみたい。
 とまれ、作業仮説として、MPの回転が現象化を意味するとしよう。おそらく、この回転、つまり1/4回転の倍数が、不連続な様相をもたらすのではないだろうか。だからこそ、MPを直観的に捉えようとすると、困難さに囚われるのではないだろうか。
 ここで、一回微分=1/4回転(反時計回り)を考えよう。これは、端的に、物質化だと考えられる。このときは、MPは、実数軸的であり、-1へと展開しているとしよう。
 このとき、虚数性は喪失されているのである。だから、MPにおいて、虚数的超越性は閉鎖されているのではないだろうか。だから、ここでは、イデア界を認識することは不可能である。物質的現象界に閉塞されているのである(参考:近代)。
 しかしながら、ここでは、推量であるが、さらに、1/4回転すると(2/4回転)、虚数軸へと回帰するのである。
 つまり、MPが虚数性を帯びるのである。ということで、推測するに、実数的MPと虚数的MPが両端となり、実数的物質界と虚数イデア界とが、交替するのかもしれない。
 問題は、その中間の、複素数的世界があるのかということである。数学的には、当然存在しているが、実際はどうなのかである。
 思うに、回転から見ると、複素数的世界があるように思えるのである。その両端が虚数的MPと実数的MPであるように思えるのである。
 この複素数的世界が、虚数と実数との即非的融合の世界ではないだろうか。
 この複素数的世界の回転が、世界、宇宙を動かしているようにも思える。世界や宇宙には、サイクルがあるのだと思う。この点については、後で検討したい。
 ところで、私は、ここでは詳述しないが、キリスト教に象徴される世界サイクルがあり、それが、今や、終焉に近づいたと思えるのである。そう、占星術的時代サイクルの考え方は、ある意味で正しいと思われるのである。【水瓶座宝瓶宮Aquarius)♒とは、調和の時代を意味している。波動共振を意味しているのである。また、キリスト教の時代は、魚座双魚宮)♓の時代であり、二元論である。】