構造について再考する:メディア・ポイントの差異と同一性構造の関係

構造について再考する:メディア・ポイントの差異と同一性構造の関係について


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


先に、ポスト・モダン哲学(ドゥルーズデリダの哲学)を批判して、それが、ポスト構造主義と言われるものではなく(もっとも、彼らは、その用語を使用しなかったが)、構造主義の展開であると述べたのであるが、構造についての考えがややあいまいに思えたので、ここで、再考したい。
 問題は、メディア・ポイント(以下、M.P.)と同一性との関係である。ここで、先に、極性や特異性という言葉を使用したが、明快にするために、差異という用語を中心としたい。
 さて、M.P.において、超越的差異(イデア)・虚軸・超越的エネルギーが、実軸的差異ないし実軸的エネルギーに変換される。(M.P.は変換器、トランスフォーマーと見ることができる。)
 問題は、虚軸・超越的差異と実軸的差異との関係である。垂直から水平へと差異が転換される。そして、この実軸・水平的差異は、他者・対象へと志向する。このとき、実軸・水平的差異は、他者・対象に対して、同一性志向をもつのである。図式化すれば、

《差異1》⇒《差異2》(他者、対象) 

(ただし、《差異》は実軸・水平的差異であり、⇒は同一性志向を意味する。)

問題は、《差異》と超越的差異との関係である。超越的差異は、i*(-i)である。それが、M.P.で変換されて《差異》となる。このとき、i⇒(-i)となるのではないだろうか。
 しかし、問題は、複雑である。M.P.での変換(M.P.変換)は、虚数から実数への変換である。だから、iはiではなくなるのである。つまり、 M.P.変換において、虚数超越的差異が実数的差異へと変換するのだから、⇒は同一性化と見ないといけない。i⇒(-i)とは、虚数の実数化と見なくてはならない。i or -i⇒+1ないし±1である。
 では、この実数的差異とは、どう表記されるのだろうか。これは、かなり微妙な問題である。当然、iないし-iではないし、±1でもない。それは、⇒ではないだろうか。実数・水平的差異とは⇒ではないだろうか。つまり、M.P.変換プロセスにおいて生起するものが、実数・水平的差異ということになる。即ち、i*(-i)⇒+1ないしi⇒-iの⇒が実数的差異ということになる。
 では、上記した《差異1》⇒《差異2》では、《差異》が実数・水平的差異であり、⇒が同一性志向であったが、これをどう見るのか。ここで、訂正しないといけないようだ。《差異1》とはiであり、《差異2》とは-iである。だから、実数・水平的差異とは、やはり、⇒である。そして、実数・水平的差異は、同一性を志向するということであり、両者がいわば、連結しているのである。実数・水平的差異=同一性志向性である。
 さて、問題は、他者・対象のことである。《差異1》⇒《差異2》において、《差異2》を他者・対象としたが、-iの場合は、内的他者・内的対象である。しかし、現象世界においては、当然、《差異2》が外的他者・外的対象となるのである。この違いをどう説明したらいいのだろうか。
 M.P.変換は、換言すると、即非論理から同一性論理への変換を意味する。だから、実数・水平的差異=同一性志向性とは、内的差異を否定し、かつ、外的差異を否定して、同一性化するものと考えられるのである。即ち、M.P.変換において、内的差異であれ、外的差異であれ、両者は等しく否定されて、実数・水平的差異の同一性志向性によって同一性化されると考えられるのである。これで、M.P.変換の差異と同一性の関係について説明されたとしよう。
 それでは、本稿の眼目である構造について検討しよう。以上の解明から、構造とはどう説明できるだろうか。これは、ほとんど自明かもしれない。M.P.変換ないし実数・水平的差異=同一性志向性が構造であると言えよう。ならば、構造主義で中心となる『差異』とは、どう説明されるだろうか。構造主義の『差異』ないし対立とは、端的に、二項対立であると言えよう。言語学で言えば、音韻において、例えば、[t]と[d]が対立する差異となるだろう。無声子音と有声子音の差異である。これは、音韻という同一性から生起する二項対立であると言えよう。
 あるいは、文化人類学において、例えば、『天』と『地』との二元論も、二項対立と見ることができる。もっとも、この二元論の場合、山口昌男がかつて両義性の理論を説いたように、極性をもつのである。とまれ、以上から構造とは、M.P.変換ないし実数・水平的差異=同一性志向性であると確認できたこととしよう。
 さて、極性の事象が出たので、構造と極性とポスト・モダン哲学との関係について、以上の視点から検討したい。
 構造は、基本的には同一性的二項対立の構造である。では、極性はどういうことになるだろうか。極性と言った場合、当然、ダイナミクス、動態性がそこにはあるのである。これは、かなり複雑な問題である。
 構造は、基本的には、静態的である。しかし、動的構造というものがあり、それが、極性を帯びると考えられるのである。静的構造と動的構造をどう見たらいいのだろうか。
 これは、やはり、正に、差異の問題ないしM.P.の問題である。M.P.において、内的差異ないし内的他者、同時に、外的差異ないし外的他者が、同一性志向性によって否定されると述べたが、しかしながら、以前執拗に検討したように、否定された差異は、排除・隠蔽されるのであり、潜在化するのである。
 この否定・排除・隠蔽され、潜在した差異は、実は、超越性を保持しているのである。言い換えると、超越的な即非差異の志向性をもっていると言えるだろう。つまり、イデア(虚軸・垂直・超越的差異)への志向性をこの潜在的差異はもっていると考えられるのである。そして、この潜在的差異は超越エネルギーをデュナミス(可能態)としてもつと言えるように思えるのである。
 そのように考えると、M.P.において、潜在的差異のエネルギーが可能態(ポテンシャル・エネルギー)としてあり、それは、i*(-i)を志向していると言えるのである【p.s. ここで、潜在的差異がi*(-i)を志向すると述べたが、少し違うように思える。志向するというよりは、超越・垂直的差異i*(-i)のエネルギー、即ち、超越的エネルギーが、潜在的差異に作用していると言う方が適切・的確であると思われる。】。この差異の即非性が、潜在的差異において発動するのであり、潜在的差異のエネルギーはなんらかの即非性を帯びると考えられるのである。
 問題は、M.P.にある。ここでは、いわば、顕在的差異の同一性志向性が主導的であり、潜在的差異のエネルギーはポテンシャルの様態にある。しかし、後者が賦活・活性化されると、前者の同一性的二項対立の構造を動態化すると考えられるのである。
 しかしながら、ここでは、同一性的二項対立構造が主導的であるので、潜在的差異の即非的エネルギーは、同一性構造の枠に収斂ないし収められると考えられる。これが、極性ないし対極性(両極・双極・太極・陰陽性)であると考えられるのである。
 端的に、即非性と極性は異なるのである。一見両者は似ている。しかし、前者において二項は不連続であり、後者において二項は連続的であるからである。つまり、M.P.において、潜在的差異の即非的エネルギーは、同一性的二項対立構造を動態化させるが、しかし、同一性的二項対立構造の連続性を帯びるので、即非性は否定されて、構造は極性化(両義性)されるのである。これが、動的構造の意味である。そして、これが、ポスト・モダン哲学(ドゥルーズデリダ)の本体であると考えられるのである。つまり、それは、東洋思想の太極論に類似しているのである。言い換えると、連続的差異(=微分)の思想なのである。
 これまで、私はポスト・モダン哲学は構造主義の展開、動的構造主義と述べてきたが、その意味は以上でよりよく解明されているだろう。ただし、私は、その動態性を実軸0度におけるものと言ってきたが、それは、不十分であったのが、以上から判明したのである。そうではなくて、端的に、M.P.における動態性であるのである。
 ポスト・モダン哲学は、構造主義の同一性ないし連続的同一性(正確に言えば、否定的連続的同一性)に、言わば、囚われていたので、差異を脱構造化することができなかったのである。言い換えると、差異と同一性を分離できなかったのである。
 確かに、ポスト・モダン哲学には、差異が発現・発動したが、それは、連続的同一性構造の枠内に過ぎなかったのである。PS理論から見ると、モダンとトランス・モダンの狭間にあったが、モダンに束縛されていたと言えよう。直感では、既述したことだが、ポスト・モダン哲学の原型は、ハイデガー哲学である。何故なら、存在と存在者(現存在)との関係は、連続的な潜在と顕在の関係であると考えられるからである。ドゥルーズにしろ、デリダにしろ、ハイデガー哲学の存在論的差異を連続的差異の視点で焼き直しているに過ぎないように思えるのである。フッサール現象学の超越性が看過されているのである。