メディア・ポイントM.P.と差異の様相と同一性構造の関係:超越性⇒連

メディア・ポイントM.P.と差異の様相と同一性構造の関係:超越性⇒連続的差異⇒同一性


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


結局、広義のポスト・モダン哲学(シェリングキルケゴールニーチェフッサール)は、メディア・ポイント(以下、M.P.)を震源として起こった哲学であると言えよう。狭義のポスト・モダン哲学(デリダドゥルーズ)は、これを差異として把捉して、同一性中心の近代主義に乗り越えようとしたのである。
 本稿では、微妙な領域であるM.P.の様相をさらに綿密に検討したい。問題は、端的に、現象学の超越性を狭義のポスト・モダン哲学は対象としていたのか、である。両者は、確かに、M.P.に動かされている。しかし、前者は、虚数的M.P.をもっていると考えられるのに対して、後者も同様と言えるのかである。これまでの検討ではそうではないことになっているのである。ここで、再検討したい。
 M.P.で虚数的超越性が実数的同一性に変換する。超越性⇒同一性と表記できる。問題は、このM.P.変換が超越性と同一性とを連続態にすることである。しかしながら、本来、超越性は同一性とは異質なものであり、連続態にはならない。ここにパラドクスがあるのである。これをどう見るのか。
 ここで、(連続的)同一性志向性の力学を見ないといけない。それは、超越性(差異)に対して、既述したように、否定・排除・隠蔽的に作用する。つまり、同一性は、超越性を否定するのである。しかし、この否定態が同時に、連続態でもあるのである。
 言い換えると、超越性(超越的差異)が、それ自体を否定して、同一性に転化するのである。この自己否定(=同一性志向性)は、超越性(超越的差異)を潜在させているのである。この自己否定の力学を明確にしないといけないのである。
 ここで、作業仮説を立てると、同一性化とは、i*(-i)において、iが主導化することであり、-iが否定されることとする。(逆の場合はおいておく。)
 つまり、M.P.変換において、iが優位化して、-iが劣位化する。そして、iは形相的であるので、同一性化が形成される。そして、-iが否定されて、排除・隠蔽され、潜在化する。
 だから、これまで、超越性が否定されると言ったが、的確に言えば、-iが否定されるということになる。これが、潜在的差異ということになる。(思うに、-iは、身体に潜在しているのである。参照:メルロポンティの現象学。)
 確かに、このように考えた方が適切であるようだ。なぜなら、同一性を否定して、この潜在的差異だけを肯定することは、単純に-iを肯定することになり、 iを喪失することになるのであり、逆に、倒錯になるからである。言い換えると、非合理主義、神秘主義、オカルト主義になるだろう。
 そのように考えて、iの自己否定の様相を考察しよう。そう、以前、繰り返し述べたように、この自己否定は、自己矛盾である。なぜなら、本来ある即非様相を否定して同一性様相に変換するからである。つまり、i*(-i)という即非様相という本来的なものを否定して、同一性様相にするからである。だから、自己否定=自己矛盾とは、超越性(超越的差異)の一つの様態と見るのが正しいと思えるのである。わかりやすく言えば、超越性は差異と同一性の両面をもっているとすると、M.P.変換において、同一性の側面が主導的に、優位になり、差異の側面が秘匿されるということである。
 思うに、この同一性変換は、エネルギーが必要である。超越性を同一性として維持するためのエネルギーが必要であり、そして、そのエネルギーが衰滅すると、差異が顕在化して、元の超越性へと復帰するのではないだろうか。生成消滅、生死であり、死は復活、超越界(イデア界)への回帰である。(量子は、そのように生成消滅するのではないか。また、生命もそういうものではないか。)
 このエネルギーを同一性エネルギーと、暫定的に、呼ぼう。そう、物質エネルギーでもあろう。おそらく、E=mc^2に関係する。
 では、同一性エネルギーに対して、差異エネルギーがあるだろう。否定された-iのエネルギーである。しかしながら、これは、iを求めるエネルギーのはずである。だから、超越的エネルギーである。
 ざっとであるが、以上の検討から推察できることは、超越性(超越的差異)の自己否定=自己矛盾とは、同一性エネルギーと超越的エネルギーの二つの様相をもっていることである。
 そして、哲学史的に見ると、広義のポスト・モダン哲学は、超越的エネルギーによって動かされていたと考えられるのである。しかしながら、それを明確に明晰に、把捉していないのである。ポスト・ヘーゲル哲学として、シェリングキルケゴールニーチェフッサール(、ウスペンスキー)の斬新な哲学が創造される。彼らは、確かに、超越的エネルギーに触発されていたと考えられる。
 狭義のポスト・モダン哲学(デリダドゥルーズ)もそのように見られるかもしれないが、ここには、微妙な問題がある。分水嶺ハイデガー哲学である。フッサールまでは、超越性主導である。しかし、ハイデガー哲学においては、超越性に駆動されていても、同一性(存在者ないし現存在)が主導的になるのである。あるいは、同一性と結びついた超越性が主導的になるのである。この点で、以前の広義のポスト・モダン哲学と異なるのである。フッサール現象学とは、明らかに、視点が異なる。
 つまり、ハイデガー哲学は、超越性と同一性との連続性の視点を明確に導入したと考えられるのである。(これは、ベルクソンと同様だと思う。)言い換えると、ハイデガーは、M.P.の自己否定=自己矛盾における様相で哲学を行ったということである。この様相をM.P.の超越性(差異)/同一性パラドクス様相とでも呼ぼう。単純に同一性パラドクス様相でもいいだろう。
 同一性中心主義は近代主義である。では、この同一性パラドクス様相とは何だろうか。これは、実は、近代主義の裏面というか。近代主義の副産物であろう。近代主義は、超越性・差異を否定するので、その否定された超越性・差異が、言わば、異議申し立てをするのである。これが、同一性パラドクス様相である。つまり、近代主義から必然的に発生する反近代主義ないしパラ・モダンである。ヘーゲル哲学は、この同一性パラドクス様相を弁証法によって同一性構造へと曲解的に収斂させたと言えよう。
 ということで、ハイデガー哲学は、フッサール現象学の超越性への突破を受けたが、この同一性パラドクス様相に、いわば、逆行したのである。強く言えば、後退・退行とも言える。近代主義の矛盾への後退である。
 整理すると、近代主義は、同一性主義であるが、裏面として、差異を否定しているので、同一性パラドクス様相を帯びることになる。しかし、この差異は超越性であり、本来、同一性とは異質なものである。そして、この超越性の探求に、広義のポスト・モダン哲学は向かったのであり、その明確な成果がフッサール現象学である。しかしながら、それを受けたハイデガーは、超越性を進展させずに、それを受容したまま、同一性パラドクス様相へと後退したのである。
 さて、このように見て、狭義のポスト・モダン哲学(デリダドゥルーズ)を見ると、それは、ハイデガー哲学の後退を前提としていると考えられるのである。同一性パラドクス様相が中心となっていると思われるのである。つまり、差異と同一性の連続性が基盤になっているのである。
 問題は超越性との関係である。ハイデガーフッサールの超越性を受容していたと考えられるが、同一性パラドクス様相を中心化しているのである。ハイデガーの場合、いわば、二股なのである。一方では、フッサール現象学の超越性を肯定し、他方では、同一性パラドクス様相を主眼にしているのである。前者が存在であり、後者が現存在である。結局、フッサール現象学の同一性パラドクス様相化である。これは、後退である。強く言えば、広義の近代主義へと戻っているのである。
 換言すると、広義のポスト・モダンとは、同一性パラドクス様相からの離脱として超越性を志向していたのであるが、それが、ハイデガーにおいて、逆行してしまったのである。だから、反動と言えるのである。広義のポスト・モダンから広義のモダンへの後退である。
 以上の視点から狭義のポスト・モダン哲学を把捉することができるのである。それは、ハイデガー哲学の広義のモダン(同一性パラドクス様相中心主義ないし差異/同一性連続主義)を基盤にした「差異」の哲学である。だから、「差異」は超越性ではなく、連続的差異でしかないのである。つまり、狭義のポスト・モダン哲学とは、ハイデガー哲学からさらに広義の近代主義へと後退しているのである。
 最後に構造主義について再考しよう。構造主義は、端的に、同一性パラドクス様相を静態的に構築したものだろう。一見、即非の論理に似ているが、そうではない。なぜなら、同一性パラドクス様相とは、差異と同一性の二重性であるからである。統一されていないのである。言わば、差異の論理と同一性の論理が並存しているのである。これでは、即非の論理とは言えないのである。
 結局、構造主義とは、差異の次元を超越論化して、それに同一性の論理を従属させたものだろう。だから、端的に言えば、差異iによる同一性志向性による論理が構造主義であると言えよう。差異iは超越論化する。ここから、超越論的同一性という構造が発生するのである。そして、この同一性は二項対立構造である。だから、構造主義とは、超越論的同一性=二項対立構造の理論であると言えよう。広義の近代主義である。
 補足すると、狭義のポスト・モダン哲学とは、フッサール現象学で発見された超越性(超越的差異ではないから、超越的志向性と言ってもいいだろう)を、ハイデガー哲学を経由して、連続的差異へと切り詰めてしまった哲学である。PS理論で言えば、虚軸のM.P.を否定して、実軸のM.P.を中心とした哲学である。つまり、広義のポスト・モダン哲学が探究した超越性を否定して、連続化した差異、実軸的M.P.的差異を中心化した哲学なのである。
 ハイデガー哲学は、広義のポスト・モダン哲学と狭義のそれとの中間に位置するのであるが、後者をより志向していたのである。