ドゥルーズとデリダ:類似点と相違点:ポスト・モダンの成就としての

ドゥルーズデリダ:類似点と相違点:ポスト・モダンの成就としてのトランス・モダン


テーマ:哲学


今は、簡単に触れるが、差異と同一性の連続態を説いたことで、両者はきわめて類似しているが、問題は、ドゥルーズの説いた内在平面の思想は、超越性がまったくないのかということである。デリダには、超越性はないが、ドゥルーズには、なにかあるような気がしたので、検討したいのである。
 ガタリとの共著『哲学とは何か』で明確に、フッサール現象学の超越性を批判して、内在性を唱えている。内在平面とは、差異(連続的差異=微分)が共立する平面である。これは、連続的平面である。これは、差異と同一性が融合した空間である。一見、差異が主導的であるが、この連続的差異は、同一性に対する否定性をもっているのである。つまり、先に述べた、同一性パラドクス様相の差異の面の強調である。即ち、同一性からみると、ネガである。
 問題は微妙である。今は、論証しないが、直感では、「無限速度」で力が移動する内在平面には、なにか超越性が関与しているように思えるのである。ドゥルーズガタリは否定しているが。なぜなら、彼らは、そこに、共振性を見ているからである。これは、連続性とは異なる。
 生成変化や被知覚態(ペルセプト)・変様態(アフェクト)という概念も、なにか超越性や即非性を感じさせるのである。そうならば、ドゥルーズの差異は単に連続的差異だけでなく、超越的差異と混淆していたことになる。これをどう見たらいいのだろうか。
 そうならば、ドゥルーズハイデガーの二股性を一つのものとして、混合させていると言えよう。思うに、端的に言えば、超越的共振性と連続性が融合しているのが、ドゥルーズ哲学ではないだろうか。連続性が内在性の基盤となっているのであるが、デリダと異なり、虚軸のM.P.が開口しているのである。つまり、超越性の肯定である。
 思うに、なぜ、ドゥルーズ現象学の超越性を実質的には、取り込んでいるのに、意識では否定した理由は、ハイデガーの現存在的連続性とスピノザの内在性を基礎としているからだろう。
 ということで、先の論を訂正することになったが、「狭義のポスト・モダン」とひとまとめにしたが、ドゥルーズデリダでは、超越性の有無で異なるのである。デリダではなく、ドゥルーズが、広義のポスト・モダンを継承しているのである。
 不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論は、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学の連続概念を超克した真正なポスト・モダン哲学と言えよう。ポスト・モダン哲学の成就である。結局、ポスト・モダン=トランス・モダンである。