ハイデガーの『存在と時間1』の圧巻:第4章:共存在および自己存在

ハイデガーの『存在と時間1』の圧巻:第4章:共存在および自己存在としての世界内存在


テーマ:哲学


ハイデガーの『存在と時間1』の《第1部第1篇第4章:「共存在および自己存在としての世界内存在」:第25節〜第26節》は、本書の圧巻である。
 ここでのハイデガーの論考は鋭敏であり覇気がある。それまでの、くどい、勿体ぶった叙述がなくなり、世間に対する闘争的なパトスをもった、鋭敏な洞察力をもった叙述となっている。とりわけ、第27節:「日常的な自己存在と世人」がすばらしい。
 ここでの記述は、真に現象学的記述と呼ぶのにふさわしい。ここで述べられている「世人」論は、PS理論における同一性=自我(=「他者」)論とほぼ同一であると言える。わずか新書判で11ページであるが、凝縮された内容をもっている。(『存在と時間』は、最初は退屈なので、この箇所をエッセンスとして出すといいだろう。縮約版ができるだろう。)
 ここで簡単に具体例を出すと、「本来的自己存在は、世人から分離されたところの、主体の一つの例外状態ではなく、本質上の実存範疇としての世人の一つの実存的変様なのである。
 だが、そうだとすれば、本来的に実存しつつある自己の自同性は、存在論的に、体験の多様性のうちでおのれを持ちこたえつつある自我の同一性からは、一つの裂け目によって切り離されていることになる。」(訳書の傍点の箇所を下線で強調した:by RENSHI) p.335〜p.336
 「世人」の実存的変容が「本来的自己存在」であるというのは、PS理論から言えば、同一性=自我の特異性・MP的変容として差異的同一性=自己があるということになるだろう。また、「自我の同一性」と「本来的に実存しつつある自己の自同性」(=「本来的自己存在」)とが「一つの裂け目」によって切断されているというのは、正に、同一性=自我と差異的同一性=自己がMedia Pointによって切断されているということになるだろう。即ち、「一つの裂け目」とは、端的に、Media Pointである。あるいは、先に私が述べた同一性パラドクス様相である。
 同一性=自我(ハイデガーの世人)は、差異(=特異性・個・自己)を否定・排除・隠蔽・埋没・秘匿しているのである。そして、この否定の境界、即ち、「一つの裂け目」が、端的に、Media Pointなのである。
 以上のように見ると、ハイデガー哲学はPS理論とほぼ等しい内容をもっていることになる。だから、フッサール現象学と続いて、PS理論の先駆の一つであると言えよう。
 フッサールハイデガーとの関係を簡潔に見るならば、フッサールの超越論的主観性をハイデガーは存在として「進展」させていると言えるのかもしれない。しかし、思うに、フッサール現象学には、存在の視点はあったのであるが、フッサールデカルトのコギト主義=主知主義に囚われていたので、超越論的主観性を超越論的存在(私の造語であるが、これがハイデガーの存在を簡明に説明するだろう)へと転換できなかったと思えるのである。実際は、超越論的主観性は、存在性を帯びていたと思えるのである。(p.s. 正確に言えば、超越論的知・即非存在論だろう。)
 ハイデガーは、フッサールの矛盾をおそらく直観して、超越論的存在論を立てたのである。(PS理論から言えば、超越論的存在論とは、超越的存在論である。)そして、さらに、ハイデガーは、フッサール現象学の同一性主義(デリダ的に言えば、ロゴス中心主義)を乗り越えて、特異性としての自己(「本来的自己存在」)を把捉していたと考えられるのである。
 明らかに、ハイデガーは、同一性=自我と特異性=自己(差異的同一性)との差異を捉えていた。ただし、「本来的自己存在」が差異的なものであることを理解していたかどうかは問題である(p.s. この箇所は少し論理がおかしい。特異性は当然、差異であるからである。後の論考を参照。)。所謂、ハイデガー存在論的差異とは、存在と存在者との差異であるが、存在(=特異性乃至はMedia Point)自体の差異ではない。
 さて、先に、私は、ポスト・モダン哲学の原型はハイデガー哲学にあると述べたが、以上の考察から、それは正しいし、極言的に言えば、ドゥルーズデリダの哲学は、フッサールハイデガー哲学の亜流である。とまれ、フッサールハイデガー現象学と正しく言うべきだろう。(ハイデガーフッサール現象学に未分化的に内包されていた純粋超越的存在を取りだしたと言えよう。しかし、それが、超越的差異になっているかは微妙なところである。)
 では、ハイデガーは、超越的存在(本来的自己存在)を捉えたが、超越的差異(即非的差異)を捉えていたかどうかである。本来的自己存在とは、実存的本質(サルトルの「実存は本質に先立つ」という考えは誤謬である)であり、特異性であるから、確かに、差異としての自己を捉えていたと言えよう。しかしながら、それを即非的であると把捉していたかどうかは問題である。この点が、キーポイントである。
 確かに、ハイデガーはMedia Pointや特異性までは捉えているが、超越的差異=即非的差異まで捉えたか。(この点では、ハイデガードゥルーズよりもはるかに進んでいる。ドゥルーズの特異性は似非特異性であるからだ。)もし、ハイデガーがヘルダリンの差異共振性の思想(イエスギリシアの神々の調和の思想)を理解していたならば、ハイデガーは、超越的差異=即非的差異を捉えていた可能性はある。今のところの私の予感では、ハイデガーはそこまでは達していないだろうが、おそらく、近づいていたとは思える。
 「一つの裂け目」というMedia Point乃至は特異性を理解していたのだから、それが、超越的即非差異であることを認識するのは、困難であるとは言え、直感的には遠くはないのである。
 今、これまで私は評価していない木田元氏の『哲学と反哲学』(同時代ライブラリー)の「四 真理の生起としての芸術作品 ハイデガー」(p. 162〜p. 169)のところを読んだが、どうやら、ハイデガーは、差異即非性を概念的というよりは、直感的に把捉していたように思える。
 そこでは、ギリシアの神殿(おそらく、パルテノン神殿)のもつ意義として、その作品によって諸々の現象が立ち現れる(ピュシス)と同時に、ピュシスは人間が住まう場所である《大地》に光をあてたことであると述べられている。また、《大地》は、立ち現れるものを自分に引き込むと説明されている。どうやら、言及されているピュシス(乃至は世界)と大地との闘争が、差異即非を意味しているように思えるのである。iをピュシス乃至は世界、-iを大地とすれば、 i*(-i)の即非関係をハイデガーは芸術作品に即して述べていると思えるのである。(p.s. 正確に言えば、ピュシスは世界と大地を含んでいるだろう。ピュシスはエネルゲイア、Media Pointであろう。)
 ここで、このハイデガー(『芸術作品の起源』)からの引用を孫引きして、傍証としよう。
 「そこに立つ建築作品は岩根の上にやすらっている。この作品がこのようにやすらうことによって、岩からそのぶこつな、だがやはり何ものへ向けられているのでもない支える力の暗さがとり出される。そこに立つその建築作品は、その上に荒れ狂う嵐に耐え、そのようにしてはじめて嵐の荒々しい力に気づかせる。石材のきらめきと輝きは、見たところただ太陽の恩恵によるように見えるが、むしろそれがはじめて日の光や空の広がり、夜の闇を現出させるのである。それが確固とそびえ立つことにおって、大気の満ちた眼に見えぬ空間が可視的になるのだ。この作品のゆるぎなさが大海原の潮の波立ちから際立ち、この作品の安らぎを背景に潮騒が響きわたるのである。樹と草、鷲と牛、蛇とこおろぎが、この作品のまわりではじめてそのくっきりとした形態をとるようになり、それらがそれぞれに現われ出てくることになる。このように姿を見せ立ち現れることそのことを、そしてその全体を早朝のギリシア人たちはピュシスと呼んだ。ピュシスは同時に、人間がその上に、またそのうちにおのれの住まいを定めるあのものに光を当てる。われわれはそれを〈大地〉と呼ぶ。・・・・・・大地とは、立ち現れることがすべての立ち現れるものを、しかもそのように立ち現れるものとしてのそれらを、そこへ引きもどしてかくまうところである。立ち現れるもののうちで、かくまうものとしての大地が現成するのである。・・・・・神殿という作品は、そこに立つことによって一つの世界を開き、同時にその世界を大地へと送りかえす。そのようにしてはじめて大地そのものも、故郷とも言うべき基底としての姿を現わすのである。」p. 165〜p. 166

もう一箇所、木田元氏の説明のついた部分を引用しよう。

ハイデガーは、そのようにすべてのものが姿を見せ立ち現れることを可能にする明るみを世界と呼び、その世界の現成と同時に、それらすべてを引きもどし、かくまおうとするものとして現成してくる基底を大地と呼ぶ。そして作品のうちで「世界は大地の上に安らぎながらも、この大地を俯瞰しようとする。おのれを開くものとしての世界はおのれを閉ざすものを何ひとつとして許さないのである。だが、一方、大地はかくまうものとしてそのつど世界をおのれのうちに引き込み、おのれのうちにとどめようとする」。作品のうちにあって世界と大地は〈闘争〉(Streit)の関係にあるのである。ハイデガーは芸術作品のうちで闘われる世界と大地とのこの闘争こそが真理の生起であり、真理の実現(ins-Werk- setzen=エネルゲイア)だと主張する。』p. 167