Media Pointの世界の様相について:M.P.における差異の連続性と不連

Media Pointの世界の様相について:M.P.における差異の連続性と不連続性の様相


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


先に、Media Pointを差異の連続性と不連続性の相補性の様相であると述べたが、それらの共振性であると言うのをためらった。なぜなら、共振性という言葉は、イデア界の差異即非性に使用すべきではないかと漠然と考えたからである。
 イデア界、乃至は、虚界においては、差異は確かに即非共振している。しかしながら、これは、ポテンシャルな様相ないしは可能性(デュナミス)の様相である。なんらかの原因で、差異共振がエネルゲイア化して、Media Pointを形成する。ここでは、差異と差異とは、不連続であると同時に、連続化している。
 では、差異の連続化とは何だろうか。差異の連続化とは、端的に、同一性化である。だから、Media Pointは一方では、不連続な差異の共振があり、他方では差異の連続的同一性化が発生しているのである。おおまかにはそう言えよう。
 しかし、そう単純ではない。何故ならば、連続性は不連続性と、いわば、一致しているのである。連続的同一性があるかと思えば、同時に、それは、不連続な差異の共振ないしは共立が存している。西田哲学の絶対矛盾的自己同一の様相である。(西田幾多郎は、Media Pointを把捉していたと言えるだろう。それにしても、不器用な表現ではある。)
 イデア界ないしは虚界の場合は、単に即非共振性の、いわば、円環様相ではないだろうか。ここには、時間がない。涅槃である。卵や種の様態であろう。マトリクスである。静止しているのである。差異均衡様相と言ってもいいのではないだろうか。だから、即非様相とは言っても、静止した即非様相である。
 それに対して、Media Pointでは、エネルゲイア様態なので、動的な即非様相である。ということで、イデア界ないしは虚界と、Media Point界の両者において、即非様相は認められるだろう。そして、即非共振性も認められるだろうが、イデア界では、すべてが、静止様態であり、 Media Pointでは、すべてが動態である。
 だから、その点を理解すれば、差異共振性という用語は両者に使用できるだろう。
 その他、問題点は、連続性である。イデア界には連続性は生起していない。これも、Media Pointと異なる点である。この点をどう考えるのか。
 連続性がないというのは、個体性がないということで、無である。Kaisetsu氏の言葉で言えば、それは非存在でああり、Media Pointは、存在と非存在の振動する空間となるのである。この点と静態/動態性とを押さえておけば、イデア界とMedia Pointとは、両者、差異即非共振性を共通にすると言っていいのだろう。
 しかしながら、精緻に言えば、Media Pointの差異共振性は二重である。一つは、iと-iとの差異共振性、一つは、非存在と存在の差異共振性である。この点が、イデア界とは決定的に異なる点である。これこそ、基本的に押さえておくべき点である。
 これで本件を解決したことにしたい。

p.s. 一点、補足したい。Media Pointに連続性があるということは、そこには、言語があるのではないかという疑問が浮かぶ。しかしながら、それは、正確には、言語ではなく、原言語ないしは前言語である。言語は、外界に接してから、発生するだろう。胎児のときでも言えるだろう。ここで、故井筒俊彦氏が以前、言語種子というようなことを述べていたことを想起する。言語分節は、Media Pointにおいては、成立していないだろう。言語分節とは、いわば、構造、同一性=差異構造である。それは、出生して、現象界の成長する過程で、形成されるだろう。Media Pointにおいては、原言語分節ないしは前言語分節しかないだろう。原分節・前分節である。言語以前の原言語である。そう、ソシュール的に言えば、原シニフィアンと原シニフィエの共振であろうし、フッサール的に言えば、「ノエシス」と「ノエマ」の共振であろう。後者は、純粋なそれではなくて、同一性を帯びたそれである。