三島由紀夫の『鏡子の家』:三島の毒を通した《光》:Media Pointの

三島由紀夫の『鏡子の家』:三島の毒を通した《光》:Media Pointの太極性


テーマ:文学・哲学


今日、三島由紀夫の『鏡子の家
http://www.mishimayukio.jp/sakuhin36_2.html#kyoko
を買った。税込みで780円。買う前に、店内で冒頭から立ち読みしたが、引き込まれていた。決して、三島由紀夫の文体はうまくはない。文体なら、太宰治の方が、優れた日本語を創造していると思う。では、何故、三島由紀夫を読みたくなったのか。それは、彼の文章にある毒に惹かれるからだと思う。それは、悪意であり、そして、結局はルサンチマンだと思う。簡潔に言えば、生存へのルサンチマンである。生への恨みが三島にはあると思う。これは、彼の文章を読む人ならば、すぐわかるだろう。そう、アンチ・ヒューマニズムである。政治的には、戦後民主主義への心底の憎悪がある。思想的には、当然、ニヒリズムである。
 ニーチェは積極的ニヒリズムを説いたが、三島には積極性はない。無に対する異様な郷愁をもっていたと思う。ある意味で、究極の仏教徒ではなかったろうか。仏陀釈迦牟尼シャカムニは、輪廻する世界から解脱を説いたのである。それは、一種、肯定的ニヒリズムである。こういうと、ニーチェとの違いがわからなくなるが、ニーチェは地上の生を求めていたのであるが、仏陀や三島は、言うならば、死の生を求めていたのである。
 ここで、よく言われるが、西洋と東洋の根本的相違が現れているだろう。生の西洋であり、死の東洋である。前者は生死であり、後者は死生である。(思うに、アルベール・カミュは、珍しく、東洋的ではないだろうか。)ここで、僭越ながら、私に関して言うと、やはり、東洋側である。確かに、死は恐く、生への執着はないことはないが、通奏低音として、死への憧憬があるのではないだろうか。
 結局は、死と生との「絶対矛盾的自己同一」が基本ではないのだろうか。そして、これが本稿のポイントにつながるのである。私が今日、思いついたのは、三島由紀夫の生への否定・死の肯定から、根源的には、PS理論で言えば、Media Pointにおいて、生のエネルギーと死のエネルギー、言い換えると、正のエネルギーと負のエネルギーが拮抗して、最初は正のエネルギーが現象化するが、それが消滅すると、死のエネルギー、負のエネルギーが発動・発現するのではないのかということである。これは、考えれば、以前述べたことではあるが、三島由紀夫に関連しては、考えなかったことであるし、また、Media Pointについては、以前は、明確に提起されていなかったので、今日、ここで提起するのは、有意義であると考えられる。
 死のエネルギー、乃至は、負のエネルギーと言うと、すぐに、フロイトの死の本能(死の欲動)を想起するのである。それは、破壊的な本能である。フロイトは、これで、それまでのエロス中心の自説の変更を余儀なくされたのである。つまり、人間の本能の中心はエロス(フロイトの場合は、正しくは、近親相姦欲望である)であるとした自説を翻して、タナトス(死の本能)が人間の本能の基盤にあるとしたのである。これは、いわば、フロイトからアンチ・フロイトへの転向と言っていいくらいである。ポスト・フロイトになったのである。これは、第1次世界大戦の恐ろしい経験をした患者が決して生(エロス)を求めず、破壊的な死を求めたことから、理論化したことである。また、死の本能は、フロイトの孫による糸巻き遊びにも見られるとフロイトは説いたのである。言語形成に、死の本能=破壊本能が主導的であると見たのである。
 では、生のエネルギーと死のエネルギーの一種の対極性という考えとフロイトの死の本能説は共通しているのだろうか。この問いはここまま置いておき、PS理論から展開したい。(あるいは、読者自身に考えていただこうか。)
 PS理論では、イデア界の差異即非共振性があり、これが連続化して、Media Pointに変換する。もっとも、ここでは、差異の不連続性は保持されている。この差異即非の不連続性が最初に存することに注意しなくてはならない。不連続性が自身を保持しつつも、連続化するのである。不連続性と連続性の即非様態と言えるだろう。そして、この連続性が展開して同一性を形成して、現象世界を生起するのである。(思うに、イデア界からのなんらかの回転で、Media Poitが形成され、さらになんらかの回転で、現象界が出現するのではないだろうか。以前、二回の1/4回転が必要だと述べたことがある。この点は新たに考えたい。)
 つまり、PS理論の視点では、不連続性(イデア界)⇒不連続性/連続性(Media Point)⇒連続的同一性(現象界)へと変換すると見るのである。これは、言い換えれば、死⇒死/生⇒生ということになるだろう。
 この視点から見ると、生のエネルギーとは、Media Pointから現象を形成する力である。そして、対極になる死のエネルギーは、逆方向のエネルギーであると言えよう。ここで、図式を変えると、死←死/生←生となる。
 時間の不可逆性があるが、それは、生・生成から死・消滅へと不可逆に流れるということである。ここに、形成するエネルギー、そして、破壊するエネルギーを見たい。生を形成する力を構造エネルギーとすれば、死をもたらす破壊する力は、脱構造エネルギーとなるのではないだろうか。
 思うに、《自然》の力は、生の構造エネルギーから死の脱構造エネルギーへと展開するようになっているのではないのか。私は今のところは、Media Pointの対極性として考えているのであるが。思うに、Media Pointから同一性が形成されるエネルギーが発動し、構造化が済むと、Media Pointの力は、今度は、同一性を破壊する脱構造エネルギーへと転換する志向をもっているのではないのか。思うに、以前、Kaisetsu氏が、エネルギー保存則から、プラス・エネルギーとマイナス・エネルギーで±ゼロとなることを述べていたのを想起する。
 ここで、直感から話すと、Media Pointにおいて、同一性志向性があるので、差異は連続的同一性化されるのである。そして、これが、現象化である。これは言語の発生ともつながることである。(だから、道具の発見ともつながるだろう。)しかし、差異が発動するときがあると思うのである。(このことは以前、繰り返し検討したことがあるが、うまくまとまらなかった。)思うに、連続的同一性形成へのエネルギー、あるいは、構造エネルギーがあり、それが消費されるときがくる。例えば、人間の成長を考えればいいだろう。若いときまでは、成長が盛んであり、心身の形成、とりわけ、身体の成長のためのエネルギーが主導的である。しかし、その後、成長エネルギー(ホルモンと関係するだろう)が無くなり、衰退するエネルギー(負のエネルギー)が作用するのではないだろうか。老化のエネルギーと言ってもいいだろう。
 このように具体性から、私の言いたい、生・正のエネルギーと死・負のエネルギーの対極性は考えられるのではないだろうか。もっとも、対極性というのは、少し言い足りない考え方ではある。そう、陰陽・太極性と呼んだ方がいいようだ。つまり、陽のエネルギーがあり、そして、陽が極まれば、陰に転ずということで、陰のエネルギーへと展開するということになる。だから、生・死/正・負エネルギーの太極性と呼ぼう。(やはり、回転と関係していると思う。後で、この点について考えたい。以前言及したことがあると思う。)
 構造エネルギーから脱構造エネルギーへの必然的な変換となる。差異論で言えば、同一性エネルギーから差異エネルギーへの変換である。前者は同一性形成エネルギー(近代合理主義がここに入る。近代科学や唯物論が入る)であるが、ここでは、差異が否定されるのである。つまり、差異への破壊エネルギーである。具体的には、環境破壊や戦争や諸々の犯罪を生むのである。そして、それがそれが衰退・消滅して、差異エネルギーが発動する。これは、差異を肯定するエネルギーで、差異共振エネルギーである。これは、同一性形成エネルギーによって否定・破壊されたものを修復するだろう。これは、実は創造エネルギーでもある。平和のエネルギーでもある。(これは、本来的な女性のエネルギーである。「喜劇」的なエネルギーでもある。喜劇とはこの場合、真正の意味の喜劇である。つまり、旧秩序→破壊・混沌→新秩序という図式をもつ文学が喜劇である。)
 では、このマイナス・エネルギー(脱構造エネルギー、死のエネルギー、差異のエネルギー)はどういう仕組みをもつのだろうか。つまり、Media Pointにおいて、どういう仕組みをもつのか。
 Media Pointは、死/生ないしは不連続性/連続性ないしは差異/同一性の空間である。つまり、死→生、不連続性→連続性、差異→同一性、脱構造→構造のエネルギーがプラス・エネルギーであるのに対して、死←生、不連続性←連続性、差異←同一性、脱構造←構造のエネルギーがマイナス・エネルギーであるということになるのではないだろうか。
 そうならば、マイナス・エネルギーはイデア界・虚界の性質をなんらか帯びていると言えるのではないだろうか。つまり、言い換えると、イデア界・虚界という根源界への回帰エネルギーではないだろうか。永遠回帰エネルギーではないだろうか。そうだろう。死のエネルギーなのだから、死=イデア界・虚界へと帰還しようとするエネルギーなのだと考えられる。
 ということで、冒頭の三島由紀夫に戻るのである。三島由紀夫のアンチ・ヒューマニズム、毒・悪意・生へのルサンチマンとは、死のエネルギーに拠るのであり、それが、極端・過激な形で、後年発現したということではないだろうか。確かに、極端である。
 おそらく、どこか間違っているのだろう。死のエネルギーを私は創造エネルギーであると言った。なぜなら、これは、差異共振エネルギーであるからである。だから、三島の場合は、差異エネルギーが、同一性への反動としての面が強かったと思うのである。自死した1970年昭和45年は、まだまだ、戦後の近代合理主義の主導的な時代、高度成長がまだ続いていた時代であったのだから。そう、戦後的近代主義への反動が三島の毒を造っているのだ。
 しかしながら、三島の毒には、真正の死のエネルギーがあって、それが、今日、必要なエネルギーなのである。永遠回帰のエネルギーである。仏陀釈迦牟尼のエネルギーである。三島の毒を透過して見える死のエネルギー=創造エネルギーを評価すべきなのである。
 時代は、世界は、戦争や環境破壊や犯罪に満ち溢れている。それは、同一性エネルギー、構造エネルギーによるのである。ジェンダー的に言えば、父権的エネルギーである。しかし、他方、それを乗り越える差異エネルギー、脱構造エネルギー、平和エネルギー、母権的エネルギーである死のエネルギー・永遠回帰エネルギー・仏陀エネルギーが発動しているのであり、さらに前者を凌駕するように強化されると考えられるのである。占星術的コスモス史では、魚座から水瓶座への転換を説いているのである。水瓶座は調和・友情・平和を意味するのである。
 では、暇を見ては、『鏡子の家』を読もう。 


参考:

三島は昭和34年(34歳の時)に満を持して「鏡子の家」を発表した。「金閣寺」の成功の後に、渾身の力を込めて発表した自信作だった。しかし、この作品は批評家から全く評価されず、冷たい黙殺をもって迎えられた。

鏡子の家」には、三島の分身とされる4人の青年が登場する。
ボクサーの俊吉は、全日本チャンピオンになるが、ちんぴらに襲われて拳をつぶされ、右翼団体に加入する。

美貌の新劇俳優の収は、醜貌の女高利貸しに金で買われ、最後にこの女と心中してしまう。

日本画家の夏雄は、自分を天使だと信じている。
商社マンの清一郎は、世界の崩壊を信じている。

この小説について、例えばヘンリー・スコット=ストークスは次のように解説している。

三島のこういう四つの顔を配した『鏡子の家』は、一九五〇年代の三島文学の中では最も雄弁に著者自身を語るものといえるだろう。四人が代表する三島の四側面は、いずれもこのころまでは目立たなかったが、やがて六〇年代に入ってはっきり現われてくる。

峻吉に代表される右翼的偏向は、一九六五年以降はとくに顕著になるし、人間は肉体が美しいうちに自殺しなければならないという信念も、六〇年代後半には明確になる。同じことは、流血によって存在の保証をつかもうとする収の欲望や「完全な芝居」への夢についてもいえる。

だが『鏡子の家』の最大の特徴は、四人の登場人物のうち三人までが世界の,崩壊を必至と考えていることだろう。この意味で、三島のニヒリズムは浪曼派のそれと非常に近い。

江藤淳は、三島を指して、挫折した日本浪曼派の最後のスポークスマンだと言い、戦後の三島作品に繰り返し現われる世界崩壊への期待は、浪曼派最大の特色の一つだったと書いている。

鏡子の家」が評価されなかった理由はいろいろあるけれど、一言でいえばこの4人の登場人物のどれにもリアリティーがなかったことだろう。三島は4人の人物に自分を分け与えるに当たって、彼の持つ二つの側面のうち、市民的幸福を唾棄するニヒルな面だけを投入した。

「僕は俗気があります」と自分から認めていながら、彼は自分の世俗性とその背後に潜む不全感を作品の中に書き込むことを避けた。これでは登場人物が一面的な作り物に堕してしまうのも当然といえる。

ここまで順風満帆、やることなすことすべてが思う壺にはまってきた三島にとって、「鏡子の家」の失敗は大変な打撃だったらしい。彼は大島渚との対談で、「鏡子の家」発表後の文壇の反応について「その時の文壇の冷たさってなかったですよ」と語り、「それから狂っちゃったんでしょうね、きっと」とうち明けている。事実、この頃から三島由紀夫狂乱がはじまるのである。

http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/misima.html
畑に家を建てるまで