構造主義の差異とポスト・モダンの差異の相違点:構造主義は現象学を

構造主義の差異とポスト・モダンの差異の相違点:構造主義現象学を無視した近代合理主義の極限である


テーマ:哲学


本件については先に簡単に述べたが、これは、重要な問題なので、ここで、さらに詳しく検討したい。
 私は、構造主義の差異とは、同一性間の差異、言わば、間同一性的差異ないしは相互同一性的差異であるとした(同一性的二項対立とも言った)。それに対して、ポスト・モダン(ドゥルーズデリダ)の差異は同一性以外の差異、脱同一性的差異であると言った。
 同一性が発生する原因は、根源的差異の形相性にあると考えている。原主体と原客体が即非様相を形成している(差異即非イデア)。これが、Media Pointで、動態化・エネルゲイア化する。不連続性と連続性との一致が生起する(絶対矛盾的自己同一)。そして、連続性はさらに展開して、同一性を形成する(連続的同一性)。
 そして、連続的同一性とは、シニフィアンで言えば、多様な対立するシニフィアンを形成することになるのである。だから、Media Pointの連続性の「構造」が、おおまかではあるが、構造主義の構造であり、その差異を形成すると考えられるのである。
 少し観点を変えると、他者である差異に対して、主体の差異が、自己同一性を投影して、他者の差異を同一性化するのであるが、結局、多様な他者の差異に対して、主体の差異が、多様な同一性的差異(構造主義の差異)を形成するということになるだろう。ここで、多様な同一性的差異の構造が、構造主義の構造であり、シニフィアンを考えれば、当然、静的な構造である。それに対して、多様な他者の差異に関係する差異がポスト・モダンの差異であると言えるだろう。
 言い換えると、構造主義の差異とは、主体の差異のもつ同一性志向性が形成する間同一性的差異のことであるのに対して、ポスト・モダンの差異とは、端的に、他者の差異、乃至は、同じことになると思うが、主体と他者との差異である。少し分かりにくい言い方になるが、主体の差異と他者の差異との相違としての差異である。
 シニフィアンシニフィエ、乃至は、ノエシスノエマの術語で言えば、シニフィエノエマを超越したところに他者の差異があり、この差異に焦点を当てたのが、ポスト・モダンであるということになるだろう。
 つまり、主体の差異は、他者の差異に対して、自己同一性という認識(シニフィアンシニフィエノエシスノエマ)をもってしまうのであり、この主体の差異の同一性を超えた他者の差異を取りあげたのが、ポスト・モダン哲学であると考えられるのである。だから、私の造語であるが、ポスト・モダン哲学とは、基本的には、脱構造主義哲学なのである。(注意:私が考えるところ、構造は、決して、主観性からは離れていない。つまり、例えば、シニフィアンと言っても、それは、主観性において、形成される同一性であるからである。シニフィアンの差異も間同一性的差異であり、それは、主観的である。より的確に言えば、構造とは主観・主体の差異における深層構造ないしは超越論的形式である。後で再考したい。)
 ここで、この視点から、現象学について検討してみよう。私見では、フッサール現象学は、主体の差異から客体の差異への志向性を発見した。しかしながら、フッサールは主体の差異を中心化して、客体を差異をほぼ看過しているのである。フッサールの混乱(と言っていいと思うが)は、志向性を同一性志向性に限定してしまったことにあると思う。主体の差異の他者の差異への志向性とは、正に、差異の志向性であり、本来、純粋差異的志向性のはずである。しかるに、フッサールは、それを、同一性的志向性に限定したのである。だから、フッサール現象学は二重性をもっているのである。一方では、差異的志向性の次元(Media Point)の発想があり、他方では、同一性的志向性が作動しているのである。分裂と言ってもいいだろう。自我的同一性に囚われていたために、自身が切り開いた現象学のもつ脱自我性を積極的に肯定できなかったのである。だから、フッサール現象学には、可能性ないしは潜在性としての(ポスト・モダン)の差異があると言えよう。
 そして、ハイデガーであるが、いわば、存在的存在者=現存在ないしは世界内存在を提起することで、主体の差異と他者の差異との相関性を主題にしたと言えよう。つまり、いわば、間差異性、相互差異性が存在的存在者=現存在ないしは世界内存在として問題化したのである。フッサールにおいては可能性であった他者の差異を主体の差異と関係させて積極的に摂取したと考えられるのである。
 だから、ハイデガー現象学においては、他者の差異そして主体の差異ということが問題化しているのである。だから、既にハイデガー現象学は、ポスト・モダン哲学なのである。PS理論から言うと、存在とは、主体の差異を、同時に、他者の差異を示唆する。つまり、主体の差異と他者の差異との即非様相、即ち、 Media Pointを示唆する。ハイデガー現象学はPS理論に近いのである。
 先にも触れたが、では、構造主義の意義は何であったのだろうか。それは、いわば、超越論的同一性(=構造)ないしは超越論的同一性的差異を明確に理論化したことにあるだろう。主体の差異のもつ超越論的同一性(的差異)構造を明瞭にしたのである。現象学は、だから、いわば、損をした立場にあるのである。現象学は、もともと連続的同一性を批判して、超越論的自己(超越論的主観性というよりは、こう呼ぶ方が深い)を提起したのである。既に、構造を確認していたが、それを特には提示しなかったのである。
 だから、問題は、構造主義にもあると言える。ソシュール言語学を取りあげれば、シニフィアンとは同一性であるが、それは、主観(主体)性が形成するものである。言い換えると、主観性、ないしは主体の差異は、Media Pointにおいて、同一性志向性をもっているのである。この同一性志向性が、シニフィアンという同一性を生起させるのである。だから、いわば、主観の深層構造からシニフィアンが発生するのである(私は主観の深層構造は主観の超越論的形式と考えているのである。)。
 故に、構造主義の構造とは、主観の深層構造ないしは超越論的形式であると考えられるのである。一般には、構造とは、主観を超えた形式と考えられているが、私見では、主観の根底・基盤にある形式である。そう考えれば、ソシュールのラング(共時的一般的言語体系)のことも理解しやすくなるだろう。それは、言語の客観的体系というよりは、主観の根底・基盤・土台にある深層構造的体系と言い直すことができるだろう。
 そうならば、シニフィアン(同一性)とシニフィアンの差異(間同一性的差異、相互同一性的差異)の体系を構造と見たことはどういうことなのだろうか。それは、端的に、客観主義ないしは客観中心主義に囚われている発想を意味するだろう。主観と客観とを分離した近代合理主義の発想が主導的であると言えよう。つまり、構造主義とは、近代合理主義(主客二元論)に基づく、同一性的差異論であるということである。つまり、構造主義は、厚かましくも、現象学の成果を無視して成立した、近代合理主義を基礎とする同一性的差異論ということである。そう、近代合理主義の極限・限界と言えるだろう。主観・主体の超越論的形式ないしは深層構造を始めから排除しているのである。
 だから、構造主義近代主義的には進展であるが、哲学的には反動なのである。このパースペクティブから、ポスト・モダン哲学を見ると、構造主義現象学との混乱したジレンマに立たされた哲学であったと言えよう。つまり、哲学的には、実際には現象学の方が進展しているのに、構造主義が進展しているという錯誤が支配した状況において哲学を行ったのが、ポスト・モダン哲学である。非常に不幸な知的状況に、ポスト・モダン哲学は立たされていたと言えよう。哲学と近代科学との分裂的狭間に立たされていたとも言えよう。
 例えば、ドゥルーズ哲学を見る限り、構造主義的発想が強く、主体の差異(=特異性)が、同一性と連続化されて、いわば、差異即同一性のような事態になっていると思う。現象学のもつ主体・主観的超越論性が否定されているのである。『哲学とは何か』でドゥルーズ(&ガタリ)は、フッサール現象学の超越論性を否定しているのである。
 それに対して、デリダ哲学は、現象学との批判的対話から形成されているので、反動的なドゥルーズ哲学よりは、進展的だと考えられる。bloghiro- dive氏の説明からすると、デリダ構造主義の同一性主義を批判しているようである。つまり、ロゴス中心主義を見ているのである。それは、正しい。そして、差延(差異)を説くわけであるが、それは、当然、間同一性的差異ではなく、脱同一性的差異である。(勿論、ドゥルーズの場合も、脱同一性的差異を目標としたのであるが、構造主義性が強かったために、脱同一性的差異と同一性的差異が混同されてしまったと考えられるのである。)
 思うに、デリダ差延とはほとんどハイデガーの存在である。なぜなら、後者は、同一性である存在者とは異なる差異であり、かつ時間的様相をもっているものであるからである。PS理論では、ハイデガーの存在とはMedia Pointを示唆している。
 思うに、ハイデガー現象学に既に出現していた脱同一性的差異=存在を、構造主義に対するロゴス中心主義=同一性主義批判を介して、差延として、提示したのがデリダ哲学であると思えるのである。
 だから、構造主義へのスタンスの違いによって、ドゥルーズデリダの違い、ポスト・モダン哲学の違いがわかるだろう。
 しかしながら、デリダ哲学の問題は、フッサール現象学が開拓した、「超越論的主観性」の存する次元、ハイデガー的に言えば、本来的自己存在の次元を看過していることではないだろか。どうも用語の問題があって、的確に表現できないのだが、端的に言えば、自我ではない自己を看過していると思うのである。フッサール現象学は、PS理論の視点で言うと、i*(-i)⇒+1において、iの同一性志向性(ノエシス)を明示したと考えられるのである。同一性的主観性を超えた差異的主観(主体)性の次元を説いているのであるが、この差異的主観性をデリダ哲学は看過しているように思えるのである。つまり、単に差延や痕跡やエクリチュールということで、構造主義の客観主義の爪痕を残していると考えられるのである。
 結局、ポスト・モダン哲学は、構造主義現象学との混乱した狭間にあって、差異論を展開したのであるが、脱同一性的差異という点では構造主義の乗り越えを、そして、現象学に対しては、デリダによる同一性主義批判、そして、ドゥルーズによる超越性批判(これは問題があるが)という立場で、批判を行ったのであるが、結局、構造主義的客観性を保持したこと、並びに、それと必然的に、現象学の差異的主体性=自己を看過した点で問題点があると言えよう。
 だから、端的に言えば、ポスト・モダン哲学とは脱同一性的差異論という点では、脱構造主義性をもってはいたが、それを客観主義的に捉えた点では、超構造主義であったと言えよう。(だから、機械性、没倫理性が生起してしまうのである。)
 PS理論は、だから、現象学構造主義、ポスト・モダン哲学の問題を解決した理論であると考えられるのである。