三島由紀夫の『鏡子の家』は哲学的(トランス・モダン)小説である:

三島由紀夫の『鏡子の家』は哲学的(トランス・モダン)小説である:アポロとディオニュソス


テーマ:文学・哲学


今から、約半世紀前(昭和34年、1959年発行)の三島由紀夫の、当時批評家からは黙殺され、ある意味で、作家三島を半殺しにした作品であるが、今、半分弱ほど読んだが、文体が今では古くなってはいるものの、哲学的思想が深く表現された作品であると判断した。
 三島の哲学的思想は、よく言われるように、確かに、ニヒリズム虚無主義)であるが、それでは、大雑把である。三島の哲学的思想は、戦後民主主義即ち、戦後近代主義を無価値として否定する仏教/プラトン的思想であると考えられる。
 『豊饒の海』は、大作であるが、必ずしも三島の代表作とは言えないのではないだろうか。私は、これまで、『文化防衛論』が三島のいちばんの傑作であると思ってきたが、『鏡子の家』を読んでいて、この作品も一つの傑作ではないかと思うようになってきている。少なくとも、代表作にはなると思う。また、日本近代文学における傑作の一つであり、また、さらには、日本/世界トランス・モダン文学の先駆になっているのではないと考えるのである。
 今から見て、あるいは、PS理論から見て、この作品が黙殺されたのはよく理解できる。なぜなら、三島由紀夫は、近代主義をはるかに超えた視点を作品において表現しているからであり、それが戦後近代主義の発展して行く中で、無視されるのは当然であったと考えられるからである。
 先にも少し触れたが、三島の哲学思想を捉える視点の一つは、ニーチェのアポロとディオニュソスの対極的なパースペクティブであると考えられる。この観点でおそらく、明瞭に三島の哲学的文学の骨格が理解されると思われる。
 三島は自身は、アポロ主義ないしは古典主義を標榜しているが、それは、一種のポーズである。三島自身、音楽(ディオニュソス)というものを強く意識している。そして、アポロ(美術、視覚)を超えたものに真の美を見ていると考えられる。このアポロを超えた、超越的な美とは、当然、ディオニュソスと考えられる。つまり、イデアである。
 先にも述べたが、実は、ギリシア悲劇の『オイディプス王』からわかるように、アポロとは視覚を超えたものでもある。アポロ神でもあるのである。そして、これは、ディオニュソスと通じると考えられるのであり、先には、極論単純化して、アポロ=ディオニュソスと述べたが、より精緻に識別できると考えられる。
 ディオニュソスとは、先にも述べたが、エネルゲイアダイナミクス)である。エネルギーである。これは、PS理論では、Media Pointである。ギリシア神話で、ディオニュソスの様態が千変万化するが、エネルゲイアであるMedia Pointを考えれば、納得できるのである。
 では、アポロは、端的に、何であろうか。先の等式からは、アポロもエネルゲイア、Media Pointになるだろうが、それは違うと考えられる。端的に言おう。アポロとはイデアである。プラトンイデアである。善のイデアである。洞窟外の太陽である。つまり、PS理論から言うと、エネルゲイアであるMedia Pointがディオニュソスであり、根源的差異即非であるイデアi*(-i)がアポロである。換言すると、アポロ(イデア界)⇒ディオニュソス(Media Point)⇒アポロ(現象界)という図式になる。アポロが二つの世界に分かれるので、混乱する。しかしながら、同語とするのは意味があるように思う。
 超越的世界と現象世界が同語で表現されるということを、おそらく、古代ギリシア人は意味したはずである。思うに、古代ギリシア人は、現象世界を媒介にして、超越的世界(イデア界)を直観(霊的直観)していたように思えるのである。ここで、『オイディプス王』に出てくる予言者ティレシアスが盲目であり、アポロの神託の内容と同じことに通じていたことを想起しよう。アポロは不可視の世界をも意味しているのである。おそらく、ギリシア神話は、このような予言者や透視者・霊視者によって語られたものだろう。ギリシア叙事詩の詩人のホメロスは盲目であったことも参考になるだろう。目に見えない世界を見ることができた人間によってギリシア神話が語られたのであろう。そして、古代ギリシアが特異な時期であったのは、その不可視の世界と可視の世界とが重なるような時期であったということだろう。これが、アポロの意味だと思うのである。ということで、アポロ⇒ディオニュソス⇒アポロの図式をそのまま活かしたい。
 三島由紀夫に戻ると、このコンセプトを用いることで、彼の文学がよく理解できるということなのである。三島由紀夫は、正に、古代ギリシア的な作家であったと考えられるのである。『鏡子の家』で言えば、鏡子が正に、ディオニュソス(音楽)を表現するだろう。そして、日本画家の夏雄がアポロを表現するだろう。そして、その他のボクサーの卵の俊吉や俳優の卵の治が、男性の鍛えた筋肉に至高の美を見るというのは、現象に限定されたアポロを意味するだろう。以下、小説(新潮文庫)から傍証したい。

「・・・鏡子は照りつける日ざしもかまわずに島を見ていた。・・・
 島はきらめく海のかなた、潮風のほかに充たすもののない距離を保ちながら、手をのばせば手につかむこともできそうな誘惑的なみせかけの近さを示していた。しかし鏡子は今わが手に、その島の木の梢(こずえ)、草の一ト本(もと)だに握っているのではない。島という存在は現在のものではない。それは未来と過去のどちらかに属しているである。
 定かならぬ細部が一いろのお納戸(なんど)に紛れた島は、記憶のようにも、また希望のようにも見えた。楽しい思い出のようにも、未来にわだかまる不安の姿のようにも見えた。その島と今鏡子たちのいる場所とをつなぐ力は、音楽にもよく似た力で、それは潮風の羽搏(はばた)きのように存在の距離を埋め、距離そのものをきらめいて流動する情緒の連鎖に変えてしまうのであった。こんな音楽の光りかがやく翼に乗って、鏡子は過去でもあり、未来でもあるあの島へ、たちまちにして身を運ぶことができるような気がした。
 ・・・
 鏡子は東京の家にいるときのあの何事にも客観的な自分の代りに、別の、心おきなく恋に酔うことのできる自分がそこに住みならえていそうな気がする。彼女が身に持している固い無秩序とちがって、絹のように柔軟な情念の秩序がそこには備わっていそうに思われる。・・・」 p. 147〜p. 148

「自分たち[治やボクシング・ジムの青年たち]の過剰な筋肉と、窓外の社会とそれが何のかかわりのないことが彼らを幸福にしていた。精力は筋肉のつややかな隆起の内に閉じこめられ、何の目的も呼び求めずに自足して、どこまで行っても、費やされる精力は、この個体の、徐々に増してゆく筋肉の中で終った。それは決して叫びにならない歌のようなものだった。
 筋肉で人を威かす。威かすおはおもしろい。しかし筋肉の、やさしい、ものの役に立たない、絹や花のように眺められる性質について、よく知っているの当の彼らだけであった。」 p. 247

「夏雄はこんな議論に子供らしい危険を感じた。第一、芸術作品とは、目に見える美とはちがって、目に見える美をおもてに示しながら、実はそれ自体は目に見えない、単なる時間的耐久性の保障なのである。作品の本質とは、超時間性にほかならないのだ。もし人間の肉体が芸術作品だと仮定しても、時間に蝕(むしば)まれて衰退してゆく傾向を阻止することはできないだろう。そこでもしこの仮定が成立つすれば、最上の条件の時における自殺だけが、それを衰退から救うだろう。何故なら芸術作品も炎上や破壊の運命を蒙(こうむ)ることがあるからであり、美しい筋肉美の青年が、芸術家の仲介なしに彼自身を芸術作品とすることがきたとしても、その肉体における超時間性の保障のためにには、どうしても彼の中に芸術家があらわれて、自己破壊しなくてはならないだろう。」 p. 253



■仏教とプラトニズム


三島由紀夫の哲学思想に関して、本稿では、プラトニズムになっているが、私は仏教とイデア論が同質であることを述べそびれている。
 三島の仏教に関しては、『豊饒の海』が表面的には顕在的だが、私はそこよりも、『鏡子の家』やその他の作品ないしはエッセイに三島の文教性があらわれているのではないかと思う。
 三島の仏教性は、強烈であり、超越的無へと突き抜けていると思う。それは、現世を否定して、超越界へと回帰する志向性をもっていると思う。先にも触れたが、これは、仏陀釈迦牟尼が述べた、輪廻する世界からの解脱に通じるのではないだろうか。現世利益中心の大衆化した仏教ではない、苛烈な仏教性があると思う。