三島由紀夫の『鏡子の家』は反モダンとしてのポスト・モダンの解体と

三島由紀夫の『鏡子の家』は反モダンとしてのポスト・モダンの解体としてのトランス・モダン小説だろう


テーマ:文学・哲学


ハイデガーの『存在と時間』を読んでいると、洞察力には瞠目するものの、叙述のペースが遅いというか、冗長なので、退屈しないわけではない。
 たまたま、駅前の本屋で手に取った三島由紀夫の長篇小説『鏡子の家』を買って、読み出したが、文体は三島としては弛緩している感じで、緊張感が乏しいが、しかし、内容的には興味深い、魅力的なものである。
 どうやら、三島由紀夫ルネサンスを迎えるのではないだろうか。あの壮絶な自決が今でも深く心に浸透しているが、三島の文学作品自体を正しく批評して評価すべきときになっているのではないだろうか。
 今日、すぐれた文学者は不在であり、文学が衰退していている。村上春樹では、軽量過ぎるだろうし、大江健三郎は、凡庸化している。文学だけではなく、音楽も美術も衰退している。さらには、日本全体が衰退している。
 三島由紀夫文学は、日本文学における、『死霊』の埴谷雄高文学と並んで、稀有な哲学的文学として評価すべきと考えている。私は以前、と言っても、今から十六七年前頃、三島由紀夫のエッセイの文体に、大地の奥底からの響きを聞いた。マグマである。そして、彼の一種の不気味な神秘主義に惹かれた。しかし、『豊饒の海』は、それほど、感動はしなかった。それは、あまりにも人工的な作品に思えた。(昔は、人並みに有名作品、例えば、『仮面の告白』、『金閣寺』、『潮騒』等を読んで感動した。そう、SF的な『美しい星』は、ファンタジックな感動があった。)そして、異様なエッセイである『太陽と鉄』は、難解であった。そして、結局、『文化防衛論』の三島にもっとも強い感銘を受けたものだった。
 しかしながら、当時の私は、三島文学の骨格の哲学に気がつかなかった。ニーチェ哲学を適用することに気がつかなかった。ただ、虚無だけが恐ろしく剥き出しに感じられた。
 しかし、今は、PS理論のパースペクティブがあるので、三島由紀夫文学の哲学性が明瞭に見えてくるのである。先にも触れたが、明らかに、仏教とプラトニズムの哲学である。ないしは、古代ギリシアの思想である。確かに、右翼として三島像があるが、それだけを肥大化すると三島由紀夫文学が見えてこなくなるだろう。
 とまれ、三島由紀夫文学は、今日的な、トランス・モダン哲学を表現ないしは潜在させていたと思えるのである。私の直感では、プラトニズム的仏教ないしは仏教的プラトニズムと呼べるような哲学が三島由紀夫文学には表現されていると思うのである。ただし、イデア論イデアを同一性的イデアと見るのは、いわば、通俗である。プラトンイデアは、同一性イデアよりも深いものがある。有名な洞窟の比喩の箇所でわかるように、三層構造である。即ち、洞窟外の太陽と洞窟内の実体と洞窟の壁の映像である。洞窟内の実体が、同一性のイデアであり、洞窟外の太陽がイデアイデア、ここで私が考えるイデアである。
 直感では、三島の虚無は、D.H.ロレンスの闇に似ている。それは、実際は、イデアの光=超光であると思う。イデアの光=超光は、現象世界からは、不可視であり、虚無や闇に感じられると思うのである。
 今はここで留めたい。


p.s. イデアの《太陽》は、独立しているのだろうか。言い換えると、虚界とMedia Pointとは別々に独立しているのだろうか。思うに、ここで、デリダの痕跡という概念を使用するといいと思う。Media Pointは、イデアの《太陽》の痕跡ではないだろうか。イデアの《太陽》は、実際は、静的なもの、デュナミス的(否、前デュナミスかもしれない)ものである。それは、エネルゲイア以前であるから、実際は、認識不可能である。完全に不可知である。
 Media Pointを媒介にして、イデアの《太陽》が、影のように知覚ないしは認識できるのではないだろうか。常に、Media Pointを介して、認識することになるのである。
 どうも、これは難問である。虚界がイデアの《太陽》ならば、Media Pointは、何であろうか。それは、光なのか。エネルゲイアであることは確かである。思うに、イデアの《太陽》とは虚光であり、Media Pointの《太陽》が超光⇒現象光ではないだろうか。
 後で再検討したい。