同一性を包摂する差異・Media Pointの問題:同一性欲望と差異的エネ

同一性を包摂する差異・Media Pointの問題:同一性欲望と差異的エネルゲイア:共生資本主義


テーマ:差異と同一性


この問題は、トランス・モダン/プラトニック・シナジー理論の中核的問題であろう。極言すれば、ここにすべてが懸かっていると言えよう。
 仏教/プラトニズムは、基本的には、現象をマーヤー/仮象として把捉し、空やイデアの真実在性を説く。これは、キリスト教にも通じるだろう。現世でなく、形而上学的世界の優位性を説いている。(もっとも、現代では、形而上学は哲学からは批判されている。形而上学が批判対象になるのは、それが、二項対立を生み出す根源と考えられるからだろう。しかし、これは、これまで諸考察から、一面的なことがわかるだろう。Media Pointをこれまでの哲学は認識していないからである。)
 結局、問題は現象をどう評価するのかに、懸かっている。表面的な仏教やプラトニズムでは、現象は否定的な対象となっている。もっとも、大乗仏教は色即是空、空即是色を説く。これが、思うに、本件の解答に関係すると考えられる。
 問題は、自我、物質、同一性をどう捉えるのかである。仏教は否定した。そして、プラトニズムも否定するだろう。しかし、大乗仏教イデア論の奥義は、そうではないだろう。色即是空、空即是色とは、自我、物質、同一性を最初は、否定して、それから自我、物質、同一性である色へと回帰しているのである。また、イデア論は、現象がイデアを分有していると言う。ここが、奥義なのである。(聖書はどうなのだろうか。後で考察。)
 般若心経(はんにゃしんぎょう)の場合、色と空との即非を説いていると言えよう。現世は空であり、且つ、空ではなく、現世であるということだろう。ここには、自我・物質・同一性の肯定があると思うのである。ただし、当然ながら、自我主義・物質主義・同一性主義ではない。
 正に、ここにあるのは、私が考えてきた、同一性を包摂する差異・Media Pointの様相であると思われるのである。仮に、同一性がなければ、差異はどうなるのだろうか。それは、端的に、イデアだけの世界である。ここでは、思うに、普遍性だけの世界で、個体性がない。単独性も、特異性もないだろう。(Media Pointが単独性、特異性の根源である。)そう考えると、もし、イデアだけの世界があるならば、それは不完全な世界となるだろう。個体性、単独性、特異性が欠落していると考えられるのである。端的に、「わたし」が存在しない世界だろう。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において言えば、左辺だけの世界であり、右辺がないのである。左辺が神ならば、神は右辺の自己になることが必然なのである。(自己とは自我を包摂するものとしての自己である。)
 ここから考えると、大乗仏教新約聖書の教え(両者ほぼ同時代である)は、同質の霊的理念(霊理)を説いているように考えられよう。空即是色と神人は、差異の成就として必須であると言えよう。端的に、娑婆(しゃば)において、苦しみ、それを乗り越えることが課されていると言えよう。ニーチェが否定したルサンチマン(怨恨)であるが、それは、同一性に囚われれているから否定したのだろう。怨恨をいだきつつも、それから脱却すること、これが、ニーチェの真意ではないだろうか。色即是空である。
 同一性・自我・物質は欲望(色)を生む。そして、それは、肯定されなくてはならない。しかし、同時に、差異が人間には存しているのである。それは、同一性・自我・物質を超越している。Media Pointである。ここで、他者と共振するのである。ここに、共同体・共生体の中枢・地盤・基盤があるのである。結局、同一性・自我・物質から差異= Media Pointという単独性・特異性の様相に高進すること、ここに、新生共同体・共生体の原核があると言えよう。
 Media Point的共同体・共生体を創造すること、ここに神人類の理念があると言えよう。そして、これこそ、大乗仏教キリスト教、その他の宗教の本質ではないだろうか。イスラム教はウンマという共同体を重視しているのである。
 資本主義は、Media Point Communionへと変容することになるだろう。これは、必然である。しかし、多くの人の気づきが必要である。気づきが遅れれば遅れるほど、破壊の爪は終末論的になるだろう。20世紀、21世紀の戦争は、人類の気づきが遅れているために起きたとも言えよう。今日においても、人類の大半の認識が遅れて、資本主義が同一性主義的破滅(熱力学的死)へと向かっているのである。
 Media Point的共生体は、資本主義の脱皮を意味する。サナギから蝶へと転化するのである。富は、哲人政治家や哲人役人を触媒として、哲人経営者を仲介として、社会へと還流するのである。そして、社会は共生体に変容するのである。利己的量的投資ではなく、共生的質的投資である。量的資本主義から共生資本主義への脱皮である。