二種類の「目」について:超越的差異的「一(いつ)」的ヴィジョンと

二種類の「目」について:超越的差異的「一(いつ)」的ヴィジョンと連続的同一性形相形象:視と観


テーマ:プラトニック・シナジー理論


今は簡単に触れるに留めるが、この問題は夢のヴィジョンから発したことである。日常における視覚とは別に、夜見る夢の「視覚」はどこから発しているのかということである。
 私は比較的よく夢を見る方なので、このことを考えるのである。私は夢や深層の視覚をヴィジョンと考えてきた。ここで、プラトニック・シナジー理論から見ると、イデア界・超越界において、超越的差異のヴィジョンがあるだろう。それは、イデアのヴィジョン(イデア・ヴィジョン)である。超越光のヴィジョンである。その「視覚」を視と呼ぼう。
 それに対して、Media Pointから同一性が形成されるときのイメージ・形象がある。このときの視覚を観と呼ぼう。通常は観の視覚で生活しているのである。この観であるが、これは、Media Pointの超越的差異の「一(いつ)」(=イデア)のヴィジョン・視を否定(抑圧)して、連続的同一性=形相=物質現象の形象を作ることから生まれるものと考えられる。
 超越光的ヴィジョン(イデア的ヴィジョン)を否定・抑圧して、通常は現象界を観ているのである。しかしながら、抑圧されているMedia Pointに回帰すると、超越光に接するのである。超越的差異の「一(いつ)」=イデアのヴィジョンに接するのである。(思うに、霊spiritと呼ばれるものは、このイデアのことと考えるべきだと思う。魂も同じである。この点は後で検討したいが、ひとこと言うと、オカルティズムはイデアを連続的同一性=物質の形相と一致させていると考えている。だから、霊的唯物論という錯誤した思想が発せられるのである。ドゥルーズの差異もこのようなものに近い。そう、ドゥルーズの哲学はオカルティズムに近いと思う。)
 このとき、視覚は観から視へと変換するだろう。というか、観の基底である視へと回帰すると言えよう。すると、視覚は二重となるだろう。視と観の視覚である。「霊視」と肉眼である。もっとも、Media Pointへの回帰が純粋でないと、混乱・混濁・汚染・錯視・錯覚が起るのである。連続的同一性の観と超越的差異の「一」の視とを混合して見るのである。(これがオカルティズムであろう。ルドルフ・シュタイナー人智学はこのようなものだと思う。危険である。それが、それなりに優れた発想はもっていても、危険である。)
 同一性は同一性であり、物質として評価しなくてはならない。そして、差異は差異として評価しなくてはならない。そして、差異はMedia Pointにおいて、同一性=物質を包摂するのである。つまり、視は、Media Pointにおいて、観を包摂すると言えよう。そして、これが真正の視覚(造語して、視観とする)であると言えよう。
 この視観は、日常においては、同一性を精緻に見るだろう。しかし、同一性の観の背景として差異の、超越的差異の「一」のヴィジョンの視を秘匿している。そして、視観の融合したヴィジョン・イメージを形成するだろう。
 ここでプラトンイデアアリストテレスの形相について比較すると、プラトンイデアは超越的差異の「一」性であり、アリストテレスの形相とは、連続的同一性における原型のことであると考えられる。当然、前者は形而上学的であり、後者は物質現象的である。両者の間には、Media Pointが媒介点として存しているのである。
 思うに、プラトンイデアが同一性的原型として誤解されたのは、おそらく、プラトン自身の叙述の仕方が影響しているのではないだろうか。『国家』における、国家から詩人や芸術家を追放する、有名な言論であるが、そこでは、例えば(例が違うかもしれないが)、建物のイデアに対して、建築家とそれを描写する作家がいて、作家はイデアから建築家からも遠ざかっているとしている。このような叙述では、イデアを単に同一性的原型として考えられてしまうだろう。
 おそらく、そこでのプラトンの誤りは、作家もイデアから描出しうるということを述べていないことだと思う。toxandoria& Kaisetsu氏がミメーシスについての新説を出しているが、正に、ミメーシスの問題なのである。『国家』でのミメーシスは正に模倣であるが、それは、イデアの問題としてはふさわしくないのである。それは、アリストテレス的形相に近いのである。そうではなく、イデアをミメーシスすると述べれば、正鵠を射ていたといえよう。真正な芸術家も当然ながら、『国家』に入れなくてはならない。今はここで留めたい。