Media Pointと同一性の関係

昨日の以下の考察は、ポイントが不明晰である。テーマは明瞭だが。
「Media Pointにおける垂直/水平変換構造について(仮タイトル)」http://ameblo.jp/renshi/entry-10046421299.html


 この論述の前に、プロテスタンティズムの意味を分析したのである。それは、これまで述べているように、ルネサンスの差異を内包したプロテスタンティズムというもので、それは、Media Pointから発して、同一性=近代合理主義へと展開したものであると見たが、他方、Media Pointと同一性ー自我との二重性が、プロテスタンティズムにはあると考えたが。アメリカ人のことを考えたのであり、Media Pointの発露として、文学では、19世紀のアメリカ・ルネサンス(エマーソン、ポー、ホーソンメルヴィルホイットマン、ディキンスン等)があると考えたのである。
 そこから、理論を一貫させようとして、長々とした試行錯誤になり、それを受けて、昨日の論述となったのである。
 とまれ、原点に返って、考えよう。Media Pointと同一性との二重性の問題である。すなわち、Media Pointから同一性が発現しつつも、Media Pointと同一性は分離しているのである。これをどう説明するのかである。言い換えると、差異から同一性が発現するが、差異は同一性とは分離しているのである。
 昨日の説明は、同一性の発現の場合、Media Pointの太極(陰陽性)が否定され、潜在して、二項対立が顕現するとしたのである。つまり、Media Pointが隠蔽されて、無意識化されて、同一性=二項対立が発生したのであり、表層的には、分離と見えるが、Media Pointの太極の特異な様態としてみることができるというものであった。
 言い換えると、否定という媒介によって、Media Pointと同一性を分離しているということである。抑圧である。(抑圧が出てきたところで、精神分析について簡単に触れると、抑圧とは、Media Pointの抑圧と見るべきである。)だから、Media Pointと同一性との分離とは否定・抑圧による分離であり、絶対的ではない。
 では、Media Pointへの回帰とはどういうことなのか。それは、否定を乗り越えて、肯定へと転化したときに、Media Pointへと回帰するということと考えられる。いわば、否定の否定である。(ヘーゲル弁証法は、Media Pointに近づいてはいるが、それを差異ではなくて、超越的同一性にしていると思われる。)すなわち、否定による同一性化を乗り越えて、Media Pointへと回帰するということである。
 それでは、同一性はどうなるのか。言い方の問題があるが、同一性主義は解体するが、同一性自体は残るのである。つまり、Media Pointが同一性を包摂するということになるのである。もっとも、Media Pointが主導的であり、超越的差異(イデア)が直感されるのであり、Media Pointに純粋回帰したときは、同一性の枠はいったんは休止するだろう(瞑想状態)。
 この様態と同一性主義を見て、私は、二重性と呼んだのである。確かに、同一性主義の場合は、純粋Media Point状態は抑圧・隠蔽されているから、二重性があると言えよう。言い換えると、差異の否定における場合と差異の肯定の場合の二重性があるということになる。
 では、さらに検討すると、この否定と肯定はどういうことを意味するのだろうか。差異を否定して同一性を形成する。正確に言えば、差異を否定して同一性主義を形成するのである。ここには、同一性への必然性がある。志向性は差異へと志向するが、同一性の形成を向かうのである。
 これをどう見るのか。既述済みだが、自己投影という方法で、差異を同一性認識するのである。(昨日の表現では、自乗化である。)他者に自己を見るのである。i・i⇒-1ないしは(-i)・(-i)⇒-1である。
 ということは、同一性形成とは、他者・差異の否定であり、自己中心化である。思うに、「自己」iには、形相的同一性認識性が内在しているのではないだろうか。この形相性を他者へと投影するのではないだろうか。
 とりあえず、そういうこととして、では、差異の肯定とはどういう事象なのであろうか。差異の否定からは、形相的同一性認識が発生する。これは自己中心的認識である。差異・他者を理解してはいない。それに対して、差異の肯定とは、意識の方向を内的差異・他者へと向けて、それを肯定することを意味するだろう。(スピノザの能動的観念とはそういうものだろう。)
 問題は意識の方向ということである。これは何か。それはMedia Pointの意識の方向ということではないか。Media Pointから同一性が発生するが、それは、内的差異・他者を否定して、外的差異・他者へ自己投影することであり、ここでは、意識の方向とは、同一性への方向、自己中心への方向である。換言すると、形相的同一性への方向である。
 そうすると、意識の方向性と同一性認識とは別のものである。思うに、意識の方向性を志向性と考えていいのではないだろうか。志向性は最初は差異否定的に、同一性へと向かう。そして、差異を肯定する方向へも向かうということではないだろうか。そうだろうか。
 確かなことは差異の否定による同一性認識への志向性があるということである。それに対して、差異を肯定する場合とは、志向性を停止することではないだろうか。つまり、Media Pointからの同一性志向性を停止して、Media Pointに回帰することではないか。
 即ち、同一性認識を生む可視的認識志向性を停止して、意識を内界へと向けることではないのか。思うに、意識と同一性認識は別物である。同一性においては、意識は同一性化されるのであるが、同一性とは別存在であろう。
 とまれ、同一性への志向性を停止させて、意識をMedia Pointへと回帰させるということが、差異の肯定へとつながるだろう。内界への肯定的意識である。外界的同一性認識と内界的差異認識が発生するだろう。そして、後者は外界へも適用されるだろう。それが、同一性を包摂した真正な差異の認識である。
 では、意識とは何かということになるだろう。それは、端的に、Media Pointの意識ということだろう。Media Point自体が、否定的な同一性への意識を生み、さらには、肯定的な差異への意識を生むのではないだろうか。つまり、根源的に言うと、超越的差異=イデア自体が、意識を発生させているのである。「魂」というものは、究極的には、超越的差異=イデアであろう。そして、現象的には、Media Pointであると考えられる。
 ここで、ポスト・モダン哲学について考察すると、それは何であったのか。ドゥルーズに関しては、差異と同一性を連続化しているのである。だから、差異は連続的差異=微分になるのである。ほとんど、ヘーゲル哲学だと思うが。それに対して、デリダの場合は、非同一性としての差異、即ち、差延を説くが、それは、確かに、同一性からは逸脱するが、超越的差異へとは達せずに、同一性に対するズレの戯れとなっている。結局、Media Pointを発見できずにいるのだ。
 ということで、本稿は、同一性への意識の志向性と脱同一性的差異への意識の志向性を説いたことになる。差異・他者に対する否定と肯定の意識の志向性が人間にはあり、近代合理主義は差異・他者への否定の同一性意識に基づいている。
 最後に、差異・他者への肯定へと意識の志向性を、端的に説いているのが、スピノザの能動的観念の方法であると思う。もっとも、より十全化するには、差異の不連続化という作業が必要ではあるが。思うに、スピノザ+不連続的差異論⇒プラトニック・シナジー理論が言えるのではないだろうか。

p.s. 本稿のポイントを一言で言えば、同一性ないしは連続性への意識の方向性がある限り、純粋なMedia Pointには回帰できない(言い換えると、Media Pointと同一性自我意識の二重性が生じる)のであり、同一性への意識の方向性を停止して、内界へと肯定的に意識の方向性を向けると、純粋なMedia Pointへの回帰が可能になるということである。

p.p.s. 思うに、ユング心理学は、プラトニック・シナジー理論によって、より明快に解明されるだろう。ユング心理学は、真理に近づいているが、混乱していると思う。Media Pointにおいて、太極が存するのであり、自己と自我を太極化するのは、混乱するだろう。

3p.s. 不思議なのは、ハイデガーの存在である。私は、それは、Media Pointではないかと勘違いしたが、Media Pointではないのである。それ以後である。位置づけが難しいのである。私はそれを超越論的差異と言ったが、結局、Media Pointと超越論的同一性構造の中間に位置するだろう。存在の単独性は、確かに、Media Point的なものを示唆するが、純粋なそれではない。思うに、超越論的同一性という自我が存在なのかもしれない。Media Pointから発出する超越論的同一性がある。それは単独性を帯びているのである。そう、だから、訂正して、超越論的差異ではなくて、超越論的同一性でいいように思える。
 ドゥルーズの場合、超越論的同一性=存在とMedia Pointを連続化していると言えよう。
 とまれ、このように見ると、ハイデガー構造主義に近い。超越論的構造主義とでも言えるのではないだろうか。『存在と時間』では、頻繁に構造という用語を用いている。