Media Pointにおける垂直/水平変換構造について(仮タイトル)

Media Pointにおける垂直/水平変換構造について(仮タイトル)


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


本件は、タイトルがめずらしく決まらないのである。とりあえず、今のままで考察を始めたい。
 
 問題は、Media Pointにおいて、垂直性(虚軸性)と水平性(実軸性)が交叉しているが、連続化=同一性化するときは、差異が自乗化するのではないかと思った。i*i or (-i)*(-i)=i^2 or (-i)^2⇒-1である。これは、差異の斥力ではないだろうか。これは、iにとっては、左1/4回転であり、-iにとっては、右1/4回転である。
 この結果生じた-1であるが、これは、連続的同一性である。心身二元論である。しかし、基点のMedia Pointからは離れるので、Media Pointは隠蔽されるだろう。顕現した-1は同一性=自我である。そして、Media Pointはこの差異を否定した自我によっては、認識されない。確かに、潜在はしているのだが、認識できない。意識/無意識の二重構造がここにはある。近代合理主義=近代的自我である。
 さて、斥力とは反対に引力が発生したしよう。それは、差異の肯定であり、i*(-i)⇒+1である。これは、自我から自己への変換である。そして、 Media Pointも意識されているだろう。すると、自己とは、Media Point的太極と自我とが統合されている様相と言えよう。(ユング心理学でいう個性化の本質はこれではないだろうか。)
 この斥力と引力の結果は非対称的である。前者は二項対立であり、後者は太極である。即ち、前者はi・{-(-i)}ないしは-(i)・(-i)であり、後者はi*(-i)であり、後者はiと-iとの太極陰陽性であると言えよう。
 以上のことをさらに考察すると、斥力の場合、Media Pointから垂直に逃れるような方向性が発生するのではないだろうか。図化すれば、

 ↑
 ・
 ↓

となり、・がMedia Pointである。↑がiの上昇であり、↓が-iの下降である。そして、Media Pointがブランク、空白、空虚、穴となるだろう。ここでは、二項対立、二元論が支配していて、両者を連絡するものが、不可視になっているだろう。言い換えると、Media Poinないしは差異を否定しているのである。ここは、闇=無明である。
 次に引力の場合を図化しよう。

 ↓
 ・
 ↑

 ここでは、差異が肯定されている。差異の太極がある。つまり、垂直性が復帰しているのである。即ち、水平性と垂直性が共立している様相である。光=真如(しんにょ)である。精神と知性との均衡性(情報)があり、また、心身一如性がある。同一性=自我を包摂した差異=自己である。
 先の図は、近代主義であり、後の図はトランス・モダンである。では、ポスト・モダンはどうかと言うと、近代主義からトランス・モダンの中間点に位置しているだろう。Media Pointを直感しているが、まだ、同一性主義=二項対立に囚われている様態である。
 さて、太極=+1と二項対立=-1を統一的に説明できないだろうか。iと-iとの斥力と引力を考えた。そして、二項対立と太極となった。とまれ、斥力と引力は太極に括られるのではないだろうか。陰陽五行では、前者は相剋であり、後者は相生となるだろう。だから、太極に括られるだろう。
 しかしながら、斥力の場合、太極を否定する形式になる。これを何と呼んだらいいのだろうか。しかしながら、太極ないしはMedia Pointは隠蔽され、潜在しているのであるから、太極又はMedia Pointは存在しているのである。二項対立の間隙があるが、しかし、そこには、太極ないしはMedia Pointが潜在している。(思うに、デカルト心身二元論から心身並行論を説いたスピノザであるが、実質的には、太極ないしはMedia Pointを含んでいたであろうが、それを理論化できなかったと言えよう。)
 だから、斥力の場合の二項対立とは、太極ないしはMedia Pointの自己隠蔽化と言えよう。同一性主義=物質主義の光とは、闇=無明である。太極又はMedia Pointの真光は隠蔽化されているのである。(ここで、引力になった場合、明暗はどうなるのだろうか。差異が同一性を包摂しているのである。真光を背景として同一性の光が発映しているのであろう。天照と日御子の関係であろう。あるいは、光輪や後光が真光であろう。)
 思うに、太極、Media Pointの真光は自己隠蔽されて、いわば、無から、同一性の光が発せられるということではないだろうか。「光あれ」である。超越光から現象光である。
 とまれ、本論にもどると、結局、斥力と引力を太極によって統一できるが、斥力の場合、太極が自己隠蔽して、二項対立という形式を顕在化させることが特異である。
 以上をまとめると、イデア界の太極i*(-i)があり、斥力と引力が反復するとしよう。斥力の場合、Media Pointを隠蔽して、二項対立を水平・顕在化させる。引力の場合、Media Pointを発露させて、垂直/水平共立が生起する。
 さて、ここで、通常、人間において、斥力と引力の両極性があるだろうが、実際において、イデア界の太極ないしはMedia Pointを意識することはきわめて少ないだろう。なぜなら、意識とは、斥力による同一性=自我によって形成されるのであり、引力によって太極ないしは Media Pointが発露しても、自我意識によっては、認識されないからである。つまり、太極ないしはMedia Pointをなんらか感知するには、叡知・教養的訓練が必要なのである。(東洋思想は本来そのような意味合いをもっているだろう。)言い換えると、太極や Media Pointは、不可視の領域なので、それは、自我意識では認識されないということである。
 近代合理主義が太極やMedia Pointを認識できなかったのは、当然と言えよう。それは、可視的世界を基盤とした知識であったからである。
 さて、以上のような考察から東洋思想が復権するとは言えるが、注意すべきは、自明・当然ながら、単純に東洋思想へと回帰するのではないのである。西洋思想を経由して、いわば、螺旋的に回帰するのである。西洋思想の育んだ同一性という精緻な分析力を媒介にして、新東洋思想へと進展するということになるだろう。