イデア界の均衡が破れる原因とは何か:なぜ、イデアは、エネルゲイア

イデア界の均衡が破れる原因とは何か:なぜ、イデアは、エネルゲイア化するのか:試論1


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


三島由紀夫阿頼耶識論について考察しているうちに、これまで伏してきた根本的問題に考えが向いたので、ここで考察してみよう。
 すなわち、なぜ、イデアエネルゲイア化して、現象化をもたらすのかである。ひょっとすると愚問かもしれないが、これは答えないわけにはいかないだろう。
 i*(-i)がどうして、⇒化して、⇒+1になるのかである。三島の言うように、道徳的要請であると言っても、力学的には説明には、当然ならない。さきほど、私が頭の中で考えていたことをここで述べよう。
 結局、他者(差異)への志向性(フッサールは、これを、単に同一性意識的志向性に限定してしまったと考えられる)がエネルゲイア(Media Point)ということであるが、イデア界において、どうして、他者への志向性が発生するのかである。
 すこし比喩的に言えば、死の世界、涅槃、他界、彼岸、あの世において、どうして、生への世界への志向が発生するのかである。そう、先ほど、私は、イデア界とは、ユング心理学で言われるウロボロス様態にあるのではないかと思うのである。ウロボロスとは、自分の尾を口にくわえた蛇のことである。円環・循環様態である。(そう言えば、三島由紀夫は、晩年のエッセイで、ジェット機に乗ったときの経験で、地球を取り巻く巨大な蛇が幻視(透視)されたと述べていたが、それは、ウロボロス様態であったことを述べていた。)
 ウロボロス様態とは、自己と他者とが、いわば、円環を形成して、裂け目がない状態である。ある意味で双子の様態であろう。これは、対称的であり、破調がない。いわば、「わたし」は同時に、「あなた」である。即非様態ではないのではないだろうか。即非とは、Media Pointにおいて、生起するのではないだろうか。思うに、前・即非様相ではないのか。言い換えると、即非未分の様相ではないのか。つまり、即非まで分化していない様相である。一元論でも、多元論でもない様相ではないだろうか。一と多とに分化する以前の未分化様相ではないだろうか。
 以上の考えは間違っているかもしれない。ウロボロスは、Media Pointにおける連続様相において、表象されるものというようにも考えられないことはないだろう。
 発想を変えて、ガウス平面での円を考えた方がいいのかもしれない。即ち、オイラーの公理である。結局、ガウス平面の円がイデア界とMedia Pointと現象界を現わしていると言えよう。
 だから、i*(-i)とは、その円(とりあえず、複素円と呼ぼう)におけるなんらかの力学を意味しているのではないだろうか。複素円において、点、すなわち、対になる不連続点が回転しているとしよう。すなわち、iと-iとは、回転力をもっているということになる。つまり、イデア界は、本来、回転力をもっているということになる。それが、Media Pointを形成するということではないか。だから、例えば、左回転する力をもつとすれば、このとき、1/4回転して、-1と+1とが生起する。これが、現象界であろう。そして、さらに、1/4回転すると、イデア界になるが、いわば、逆イデア界である。-iとiのイデア界である。そして、さらに、1/4回転して、+1と-1の現象界となるが、これは、逆現象界である。そして、さらに1/4回転(一回転)して、もとのイデア界に回帰する。
 どうも、例えばであるが、以上のように、回転力をイデアに仮定した方が、首尾一貫するのではないだろうか。