三島由紀夫の『豊饒の月』の第三巻『暁の寺』の阿頼耶識論:PS理論と

三島由紀夫の『豊饒の月』の第三巻『暁の寺』の阿頼耶識論:PS理論と三島の阿頼耶識論乃至は唯識


テーマ:文学・哲学


貪るように、『暁の寺』を読み始め、途中を少し飛ばして、本巻の主人公、本多の阿頼耶識(あらやしき)論ないしは唯識論の箇所を再読した。以前読んだとき、なにか、その阿頼耶識論は、少し間違っているのではないかと感じたが、今読むと、三島が焦燥に狩られて、急いで、阿頼耶識論・唯識論を展開したのではと思えるが、それでも、十分研究すべき内容をもっていると考えられる。
 冒頭から始まる、本多(三島)のタイ、バンコックの大理石寺院(ワット・ペンチャマボピット)やインドのベナレス(今日では、ヴァラナシ、ワーラーナシー等)やアジャンターでの体験の、絢爛な、あるいは、凄絶な描写も見逃せないが、やはり、圧巻は、本多の輪廻転生、阿頼耶識唯識論に関する論考である。第三巻第一部の十三章から二十章までの箇所である。文庫本で、38ページほどである。
 少し引用しよう。


「・・・一切のものは阿頼耶識によって存し、阿頼耶識があるから一切のものはあるのだ。しかし、もし、阿頼耶識を滅すれば?
 しかし世界は存在しなければならないのだ!
 従って、阿頼耶識は滅びることがない。滝のように、一瞬一瞬の水はことなる水ながら、不断に奔逸しているのである。
 世界を存在せしめるために、かくて阿頼耶識は永遠に流れている。
 世界はどうあっても存在しなければならないからだ!
 しかし、なぜ?
 なぜなら、迷界としての世界が存在することによって、はじめて悟りへの機縁が齎されるからである。
 世界が存在しなければならぬ、ということは、かくて、究極の道徳的要請であったのだ。それが、なぜ世界は存在する必要があるのだ、という問に対する、阿頼耶識の側からの最終の答である。
 ・・・
 最高の道徳的要請によって、阿頼耶識と世界は相互に依為し、世界の存在の必要性に、阿頼耶識も亦(また)、依拠しているのであった。
 しかも現在の一刹那だけが実有であり、一刹那の実有を保証する最終の根拠が阿頼耶識であるならば、同時に、世界の一切を顕現させている阿頼耶識は、時間の軸と空間の軸の交わる一点に存在するのである。
 ここに、唯識論独特の同時更互因果の理が生じる、と本多は辛うじて理解した。」 p. 160〜p. 161 (尚、本文で傍点を振ってある箇所は、下線をつけた。)


最後の行に同時更互因果の理とあるが、これは、それ以前の箇所に説明があるので、引用しよう。


「---しかし本多は、唯識論について学べば学ぶほど、阿頼耶識(あらやしき)がいかにして世界を顕現させるかという態様に、興味を抱かずにはいられなかった。なぜなら唯識論は、阿頼耶識による因果は「同時」に、すなわち一刹那(いちせつな)に、しかも更互に起ると説くからである。かりにも因と果を時間的継起によってしか考えられない本多には、この阿頼耶識と染汚法(ぜんまほう)の同時更互因果という観念ほど、難解なものはなかった。しかも、これが唯識および大乗全般と、小乗とを分つところの、根本的な世界解釈の相違をあらわしていることは明らかだった。」 p. 157


 本多(三島)は、同時更互因果の難解さを提示しているが、これは、PS理論から見ると、実に当然というか、簡単なことである。つまり、阿頼耶識と現象との同時生起がここでは問題になっているのであるが、阿頼耶識をMedia Point、現象を同一性発現態と見ればわかりやすいだろう。Media Pointに時間があり、それが、同一性化して、現象を引き起こすのである。だから、Media Pointの発現として現象を捉えることができるのである。だから、それは、同時更互因果である。
 また、最初の引用では、阿頼耶識と世界の二元論が生起しているような気味がある。これは、正しくないだろう。正しくは、両者は一体ないしは一如(いちにょ)である。Media Point=阿頼耶識の、いわば、同一性の顕現した様態が現象界であると考えられるからである。言い換えると、Media Point=阿頼耶識の現象面が、世界なのである。だから、一体、一如なのである。
 もっとも、この関係は微妙である。なぜなら、Media Point=阿頼耶識の同一性の顕在面である現象面ではなく、同一性の潜在面が考えられるからである。だから、潜在面と顕在面で分離するなら、確かに、 Media Point=阿頼耶識と現象界=世界を二つに分けられる。しかしながら、同一性は潜在面と顕在面の両面をもっているのが真実である。
 確かに、近代合理主義的思考においては、この同一性を主客分離させて、同一性の潜在面に主観を、同一性の顕在面に客観を見て、主客二元論を形成しているが、その二元論的思考方法に囚われているなら、本多(三島)に見られる阿頼耶識と世界との二元論が生じるように考えられる。
 ここで、本多(三島)の阿頼耶識論を考えてみると、確かに、鋭敏な思考があるが、上述した理由で、阿頼耶識には十全には達していないように思えるのである。「しかし世界は存在しなければならないのだ!」というような言葉が繰り返されるが、どうも強引な言い方である。なにか、ここには、現象世界になんとかすがろうとしている本多というよりも、作者三島の意志がはたらいているように思える。逆に言えば、現象世界が、三島にとって、希薄なものになってきているのだろう。言い換えると、虚無が三島の精神を犯しているのであり、現象世界の存在を提起することで、それに対抗していると言えよう。
 虚無とは、端的に、死の世界、涅槃、イデア界である。それが、現象世界を無化するのである。その無化への対抗としての現象世界の存在と阿頼耶識の提起なのだと思う。思うに、三島の特異性とは、強烈なイデア界的志向なのだと思う。死・虚無への志向である。これが、同一性をすべて破壊・解体してしまうのだ。ここで、想起するのは、イギリスの女性作家、ヴァージニア・ウルフである。やはり、死への志向性をもっていた作家である。現象世界が希薄なのである。
 「しかし世界は存在しなければならないのだ!」とは、虚無に犯された三島の切望の叫びであろう。思うに、『鏡子の家』の日本画家、夏雄の一茎の水仙の実在を支点にしているのであるが、それは、正しいと思うのである。つまり、一茎の水仙の実在とは、同一性の現象の肯定であるからである。だから、三島は、「確かに、世界は存在する!」と単に言えばよかったと思うのである。一茎の水仙が頼りであったが、やはり、三島にとっては不確かだったのだろう。
 「確かに、世界は存在する!」という現象の同一性の確認ができて、阿頼耶識との関係が明快になると思うのである。そこから、同時更互因果が直覚できると思うのである。
 結局、本多(三島)の阿頼耶識論とは、虚無=死=イデア界の強力な志向力学に対抗して、現象世界が要請されているというバイアスのかかった点を差し引いて言えば、イデア界と現象界の交点であるMedia Point=阿頼耶識は、鋭敏に捉えられていると言えるのではないだろうか。即ち、上の引用の「現在の一刹那だけが実有であり、一刹那の実有を保証する最終の根拠が阿頼耶識であるならば、同時に、世界の一切を顕現させている阿頼耶識は、時間の軸と空間の軸の交わる一点に存在するのである。」という箇所は、阿頼耶識を的確に捉えていると考えられるのである。「時間の軸と空間の軸の交わる一点」というのは、正に、Media Pointのことを指しているだろう。ただ、時間の軸を虚軸にすれば正解になるのである。