イデア界からMedia Pointへ:イデア界における空虚(空・空孔)のポ

イデア界からMedia Pointへ:イデア界における空虚(空・空孔)のポテンシャル・エネルギー


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


昨日に続き、本件を考察しようと思っていたが、暑さのため、思考意欲が低下している。でも、少しは考えたい。
 三島の『暁の寺』の阿頼耶識論で、道徳的要請のために、世界が存在すると説かれていることは、真理の一つであると思う。そうならば、イデア界において、なんらか、道徳的欠如が感じられたことになるのではないだろうか。もし、道徳ではなくても、なんらかの欠落があって、それを埋めるために、動態化したのではないのか。
 思うに、欠落というよりは、空虚があったのではないのか。その空虚を埋めるために、始動したのではないのか。ならば、その空虚はどう形式化できるのか。i*(-i)の*が空虚ではないのか。
 もしそうならば、イデア界における力学とは何か。iと-iとが空虚を挟んで対峙しているとは、どういうことか。iΦ(-i)である。Φはゼロではなく、空虚(空、空孔)と読む。vacuumである。
 この空虚(空、空孔)に、力ないしはエネルギーが宿るのではないか。つまり、iと-i自体には、変化は起らないが、空虚(空、空孔)に変化が起るのではないか。つまり、イデア界は、三元性をもっているということである。そして、空虚(空、空孔)が潜在力を帯びるのである。つまり、ポテンシャル・エネルギー(デュナミス:可能態)をもつのではないのか。そして、それが、ダイナミック・エネルギー(エネルゲイア:実現態)になるのではないだろうか。
 つまり、イデア界において、空虚のポテンシャル・エネルギーが生起する。そして、それが、動態化して、Media Point(実現態:エネルゲイア)に変換する。そして、それが、連続=同一性化して、現象世界(終局態:エンテレケイア)が形成されるということではないのか。
 問題は、イデア界の空虚(空、空孔)の意味付けである。どうして、可能態(デュナミス)である空虚が実現態(エネルゲイア)へと転換するのか。思うに、空虚(空、空孔)は、イデア界の即非差異(双差異ないしは対差異と言ってもいいだろう)を受容して、連結(連続化)するのである。そう、ここが正に、最重要点である。単に、即非差異の二つだけなら、静止したままであり、永遠の涅槃・眠り・死の状態である。しかし、その中間に、ないしは、境界に、空虚(空、空孔)の「存在」を見ることで、イデア界は、動態化の可能性をもつのである。
 言い換えると、空虚(空、空孔)を一種の容れ物と見るといいだろう。ここに、iと-iとが共存ないしは「同居」するのである。このとき、プラスとマイナスのポテンシャル・エネルギーが形成される。そう、±ゼロ・エネルギーと言っていいだろう。そして、これが、結合(連続化)を志向して、動態化して、ダイナミック・エネルギー(エネルゲイア)=Media Pointに転換するのである。そして、そこから、同一性化して、物質的エネルギー(エンテレケイア)が放出されるということではないだろうか。
 今日の論点は以上で留めるが、最後に、以上のように、イデア界=虚界を三元性と捉えるならば、どのような応用ができるか少し見てみたい。
 例えば、古事記の神話の神々で言うと、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は、空虚(空、空孔)ではないのか。そして、高皇産霊神(たかみむすひのかみ)や神産霊神(かみむすひのかみ)は、即非差異ではないだろうか。また、天照大神であるが、それも、空虚ではないだろうか。空虚が太陽ないしは原太陽になるのである。
 また、空虚が時間になるのだろうし、量子存在になるだろう。しかしながら、このイデア界の空虚は、実軸のゼロと考えられてはならない。いわば、虚空(あえて、「きょくう」と呼びたい)である。高次元の空虚である。
 また、プラトン哲学でいうと、エロースとは、この虚空のエネルゲイアのことだろう。また、性愛も本来は、虚空のエネルゲイアに起源があるのではないだろうか。単なる肉体の愛とは、それを満たすことができない。本来、空虚なのであるから。連続化(性交)は、幻想である。この点は、D. H. ロレンスの『死んだ男』における復活した男とイシスの巫女との不連続的差異の共立関係が正鵠を射ているだろう。
 

参照:「プラトンアリストテレスの統一:不連続的差異論の視点から」http://renshi.ameblo.jp/entry-d289c0176e3af660490d88bc80c5aa7a.html