Media Pointの諸様相:超越的差異⇒超越論的差異⇒超越論的同一性構

Media Pointの諸様相:超越的差異⇒超越論的差異⇒超越論的同一性構造⇒同一性


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先に、ハイデガー哲学、そして、ポスト・モダン哲学とは、超越論的差異を基盤とした哲学であるとした。また、ニーチェ哲学もそうであるとした。しかし、ニーチェ哲学をそのようにポスト・モダン化することは、単純化であると感じられる。
 私は、超越論的差異は、超越的差異へ示唆と超越論的同一性構造への志向性の両義性をもつと言ったが、それは、不正確ではないかと感じる。ハイデガーの存在は、超越論的差異でいいと思う。しかし、ハイデガー哲学において、超越的差異への志向性はないだろう。だから、図式を変更する必要があると思う。

1.超越的差異⇒2.超越論的差異⇒3.超越論的同一性構造⇒4.同一性

だから、1から2への移行はあるが、2から1への移行はありえないということになる。ただ、⇒の領域に位置することはありえる。そのように考え直してみると、ハイデガーデリダ哲学はやはり、2の超越論的差異を基盤にしていると見ていい。そして、ニーチェ哲学は、1⇒2,又は、1と2の中間に位置している。フッサール哲学は、意外に、ニーチェと同等ではないだろうか。では、ドゥルーズ哲学はどうなるのだろうか。私は、先の考え方では、2と3の中間、又は、2⇒3の⇒に位置するだろう。しかしながら、なにか、1の要素が感じられないこともない。そう、ガタリとの合作において、共立概念を説いているので、1の要素があったように思える。ただし、ドゥルーズはひどく混濁していて、1〜3を、一体化している。つまり、連続的差異=微分の概念で「統一」しているのである。
 以上の図式的視点から見ると、不連続的差異論、並びに、プラトニック・シナジー理論のブレークスルー性が明瞭である。不連続的差異論は、端的に、超越的差異に到達したのである。そして、プラトニック・シナジー理論は、超越的差異が、超越的即非差異ないしは超越的共振差異であることを明確化したのである。
 最後に、まだ疑問点がある。以上の説明では、ハイデガー哲学とデリダ哲学が同質である。これはどうなのか。問題は、存在と差延の関係である。私は、これまで、それらは一致すると考えてきたが、どうだろうか。
 デリダは、存在のもつ一種の単一性ないしは一元性を解体したいのだと思う。だから、差延と提起したのだ思う。しかし、ハイデガーの存在は単純ではない。現存在という実存性から存在を見ているので、純粋な存在が捉えられるのだろうかと思う。つまり、現存在の様態が差延的であると私は思う。例えば、到来というような考え方が、差延的であると思う。あるいは、既在(既往)性という概念もそうだと思う。何故なら、デリダは、現在が過去や未来からの遅延でズレ(差延)をもっていると言う。このような考え方は、到来や既在(既往)性と似ていると思う。
 私は、ハイデガーの存在は差延的であると思うが、デリダは、存在のような一元性を排除したいのである。その代わりに、痕跡やエクリチュールを置きたいのである。しかし、差延や痕跡やエクリチュールとは、現象における差異の様態であり、ハイデガーの存在とは様相がことなるのである。そう、デリダは問題の様相を混同させていると思う。存在は、超越論的差異に位置する。そして、差延は、超越論的同一性と同一性において発生する。というか、超越論的差異=存在において差延が発生するのである。だから、デリダハイデガー哲学を勘違いしているのである。存在=差延である。そして、デリダはないものねだりをしているように思う。ということは、デリダこそ、ハイデガーの後塵を拝していると言えるだろう。そう、デリダは、巧妙に、というか、狡猾に、レトリカルである。本来、存在がもつ差延を、現象同一性の領域にもってきて、つまり、存在と差延を分離・独立させて、つまり、差延を現象領域にもってきて、それから、存在の統一性ないしは同一性を批判して解体しようとしていると考えられる。デリダの読みは、フッサールのときもそうであったが、ハイデガーに関しても、勘違い的であると思う。言い換えると、差延脱構築主義を、対象にもちこんで、強引な、牽強付会的な読みをしているのである。ハイデガーの場合は、カテゴリー・エラーである。
 そのように見ると、デリダを超越論的差異に位置づけたのは、間違いになる。デリダは、超越論的差異⇒超越論的同一性構造の⇒に位置づけるべきであろう。
 それにしても、デリダの超越性への一種反感・嫌悪・否定は特異に見えるのである。形而上学への嫌悪と言ってもいいだろう。しかし、形而上学への嫌悪とは、別に斬新なことではなく、近代主義の特徴である。しかし、単純にデリダのそれを近代主義的というわけにはいかないだろう。
 デリダ形而上学への反感は現前性に対する批判から来ていると言えよう。現前性とはいわば現象性である。それをデリダは否定したいのである。しかしながら、超越性とは現前性ではない。それは、虚性であり実性である。即非的なものである。
 思うに、デリダ形而上学の現前性を否定した根因は、超越性が超越論的構造と結びついているからではないかと思う。つまり、ハイデガー哲学の超越論的差異のように、超越論的構造の規定をもっているからではないだろうか。超越論的構造のもつ同一性構造、即ち、超越論的同一性構造(言わば、現前構造)をデリダは批判したいのだろう。それなら、理解できる。
 だから、超越論的同一性構造(現前構造)を徹底的に批判するために、デリダハイデガーの存在を否定するし、フッサールの超越性を否定するのだろう。しかし、その、いわば、ラディカルな否定のために、たいへんな犠牲を払っている。真正な超越性を否定してしまっているのである。超越論的同一性構造の否定が超越性の否定をともない、差延の思想は、いわば、何処にも位置しない、幽霊の思想になってしまったと考えられるのである。
 問題は、超越論的同一性構造(現前構造)の批判のため、超越性をも否定したということはどういうことなのだろうか。それは、デリダには、もともと、超越性の意識が欠落しているということだろう。つまり、この点では、近代主義がはたらいているのである。内在性がはたらいているのである。唯物論的と言ってもいいのかもしれない。