仏教や神道は、根源を超越的差異の領域(超越界)においていると思う

仏教・神道キリスト教:Media Pointの諸様相の視点から


テーマ:新霊性new spirituality


仏教や神道は、根源を超越的差異の領域(超越界)においていると思う。もっとも、空はMedia Pointであるが。
 ところで、キリスト教一神教はどうだろうか。私は、超越神を、これまで、超越的差異の領域においてきたが、どうだろうか。問題は、一(いつ)、あるいは、唯一にある。
 先にも触れたが、キリスト教は、超越論的同一性構造に規定されていると思う。では、超越性はないのかとなる。問題は、超越論的差異とキリスト教は関係があるのかである。
 思うに、超越論的差異とはほとんど関係ないように思える。問題は、超越性が超越論的同一性構造と直結している点にあるのではないだろうか。考えると、以前、一神教の構造を考えたときも、この点に関係していた。だから、超越性⇒超越論的同一性構造がキリスト教の構造なのではないだろうか。
 ここでは、差異は問題になっていないと思う。まだ、その段階ではないと思う。しかしながら、超越性は、本来、超越的差異である。この点はどうなのか。古代ギリシアにおいては、超越的差異はあったと思う。しかしながら、超越論的同一性構造が支配していて、イデアも、同一性イデアの面をもっていた。思うに、古代は超越的差異と超越性はほとんど区別されていなかったと思う。
 キリスト教は、明確に、超越論的同一性構造が支配的である。古代ギリシアが超越性⇒超越論的同一性構造の⇒とするなら、キリスト教は超越性⇒超越論的同一性構造の⇒の終点ではないだろうか。⇒の始点は、ヤハウェとされたが、しかし、それは、ほとんど⇒の終点と一致していた段階ではと思う。言い換えると、極限的に、超越性=超越論的同一性構造というような段階ではなかっただろうか。しかしながら、実際はパラドクスではないだろうか。超越性としてのヤハウェであるが、同時に、超越論的同一性構造のヤハウェである。
 どうだろうか。やはり、超越性ではなく、超越論的同一性構造としてのヤハウェではないのか。つまり、超越性と超越論性の混同があるのではないだろうか。
 どうも行き詰まっている。発想が間違っているようだ。キリスト教を、Media Point⇒超越論的同一性構造とするならば、明瞭だろう。
 そうならば、1.超越的差異⇒2.超越論的差異⇒3.超越論的同一性構造⇒4.同一性としたMedia Pointの様相を考え直さないといけない。Media Pointが1⇒2の⇒に存しているだろう。だから、まとめて図式化すると、

1.超越的差異⇒2.Media Point⇒3.超越論的差異⇒4.超越論的同一性構造⇒5.同一性

となる。
 後で、これまでの考えを整理しよう。

p.s. 最後に、図式を変更したが、これまでのハイデガー哲学の位置づけは、変わらない。即ち、3⇒4⇒5である。ただ、フッサールニーチェは Media Point、ないしは、2⇒3に位置するだろう。ドゥルーズは、2⇒3⇒4であろう。デリダは、2⇒3の⇒の始点、ないしは、⇒くらいに相当するのではないか。