志向性について:連続性と不連続性の即非としての志向性:ポスト・モ

志向性について:連続性と不連続性の即非としての志向性:ポスト・モダンからトランス・モダンへ


テーマ:ポスト・モダン/トランス・モダン哲学


今日、再び、タリーズで『存在と時間』の続きを読んでいたら、ある表現に触発されて、思考が涌き出して、本の余白に書き込んだ。それを転記すると、試行錯誤した内容なので、蕪雑になるので、以下、新たに結論となった内容を書きたい。


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ハイデガーの『存在と時間』では、現存在の本質の作用として、気遣い・関心を考えているが、私の見るところ、これは、フッサールの志向性をハイデガーなりに敷延化したものだと思われる。志向性という概念の方が、理論的には、包括・統括・包摂的であると私は考えるので、志向性を「存在」の基盤の作用として捉えて、考察することにする。
 さて、私は、意識存在(これは、ハイデガーの存在でもなく、フッサールの意識でもなく、両者を統一したものである。もっとも、フッサールの意識には、本来、存在と関係していると思われる。)の地盤に志向性を置く。これは、差異の志向性である。PS理論では、(+i)*(-i)⇒+1における⇒の様相である。+iと-iは差異、超越的差異(超越差異)であり、(+i)*(-i)は即非(共振)様相を意味する。そして、そこには、志向性が潜在している。中間の空虚によって、志向性の潜勢態があり、空虚を満たすようにして、志向性が実勢化する。そして、それが、エネルゲイアとしてのMedia Pointを発生させる。
 さて、このとき、(+i)*(-i)の志向性は、連続性と不連続性との対(つい)の志向性となる。これを対志向性ないしは即非志向性と呼ぶこともできる。
 さて、このMedia Pointのエネルゲイアにおいて、一方では、連続化が発生する。連続的エネルギー化である。これが、現象化である。このとき、連続化された差異は、同一性化する。即ち、同一性の意識、自我を形成する。人間の日常の意識は一般にこれである。
 問題は、この連続化による同一性が、必然的に、不連続性を忘却することである。Media Pointのエネルギーが連続性(同一性)へと傾斜したと考えればいいだろう。当然ながら、不連続性はブラインド、影になるのである。ここには、否定・排除・隠蔽という行為はなく、ただ、忘却である。
 しかし、形成された同一性意識は、志向性・対志向性・即非志向性の不連続性ないしは不連続面を忘却しているので、不連続性のエネルギーの発生に対して、否定的になるのである。ここに否定・排除・隠蔽作用が生起すると言えよう。
 つまり、こういう力学が考えられるのである。志向性・対志向性・即非志向性において、連続化と不連続化の極性がある。連続化エネルギーと不連続化エネルギーはそれぞれ、プラス・エネルギーとマイナス・エネルギーであり、両者でゼロとなり、エネルギー保存則を形成している。これは、生(エロス)と死(タナトス)の対エネルギーと言ってもいいだろう。哲学的には、同一性と差異と考えられよう。(フッサールの志向性の欠陥は、同一性の志向性のみを考えた点にあるだろう。ここを、デリダに攻められたと言えよう。とまれ、志向性は、対志向性であり、即非志向性である。)
 ここで、ポスト・モダン哲学を考えると、それは、同一性の志向性の現象に対して、差異の志向性を提起したと考えられるのではないだろうか。こう考えると、実に、明快になると思われる。即ち、同一性とは連続性であり、差異とは不連続性である。
 ハイデガー(私は、ハイデガーをポスト・モダンの一つの先駆と考えている)の『存在と時間』を見ると、存在(本来的自己)が差異・不連続性であり、非本来的自己が同一性・連続性である。(ハイデガーは存在と存在者の間に「一つの裂け目」、存在論的差異を見ていたので、これは、正当化されよう。)そして、前者を中心化したのである。つまり、存在=差異を中心化したのである。
 次にドゥルーズ哲学を見ると、それは、それは、自明ながら、同一性に対する差異の哲学を説いたのである。差異を中心化させたのである。しかしながら、その差異は、不連続なものではなく、連続的なものでしかなかった。ここに差異論としてのドゥルーズ哲学の大きな欠陥があると言えよう。
 次にデリダであるが、デリダは同一性への対抗として、差延を説いた。これは、永遠に同一性を逃れる差異である。即ち、不連続性である。だから、ハイデガー哲学を踏襲していると言えよう。
 そして、不連続的差異論を見ると、それは、ポスト・モダン理論の最終的帰結であると言えるのではないだろうか。何故なら、不連続性を究極的に説いた理論であるからである。
 さて、志向性・対志向性・即非志向性の視点から、ポスト・モダン哲学を見ると、それは、不連続性の志向性を肯定して、連続性の志向性を否定したものである。換言すると、近代主義が連続性を肯定して、不連続性を否定した事態とは正反対の事態がここにはあると言えよう。反近代主義である。脱近代主義ではない。反動とも言える事態である。
 さて、ここで、志向性・対志向性・即非志向性の視点から、この問題を考察すると、同一性(連続性)の志向性と差異(不連続性)の志向性の両極を共存させる哲学・理論が正当であるということになる。結局、同一性と差異とが即非的に結合した意識存在が本来的である。同一性の極と差異の極をもった対極的志向性が妥当なのである。そして、これを説いているのが、プラトニック・シナジー理論なのである。同一性と差異との即非性としての志向性を説いているのである。これは、ポスト・モダン哲学を乗り越えたトランス・モダン哲学である。また、フッサールの画期的な概念である志向性を、敷延して、差異の志向性として捉えた理論である。
 さて、ここで、派生的な問題として、(+i)*(-i)の志向性について考察したい。(+i)*(-i)の志向性において、連続化を考えると、二つの連続化が考えられる。(+i)→(-i)⇒-1であり、(+i)←(-i)⇒-1である。前者は知の同一性であり、後者は身体の同一性であると思われる。前者は合理主義であり、後者は非合理主義である。問題は、後者と差異の関係である。ポスト・モダン哲学は、差異中心主義である。これは、知の合理主義に対する反発・反抗・反逆と言っていいだろう。だから、身体性との結びつきが生まれると言える。
 身体的同一性=非合理主義とポスト・モダン哲学との関係はどうなのだろうか。差異を中心化すると、当然、同一性=合理的知が解体されるだろう。すると、当然、非合理主義となるのである。すると、ポスト・モダン哲学の差異とは、身体的同一性と同じであるということになるのではないだろうか。それは正しいだろう。知の同一性=合理性を否定するのだから、当然、差異は、身体の差異による同一性化となるだろうからである。
 そこで、D. H. ロレンスのdark Godやdark sunを考えると、それは、正に、差異=身体的同一性=非合理主義=闇=-1であろう。これを説いた当時、ロレンスはファシズム的発想をしていたのである。そして、賢明にもロレンスは、最晩年の(『逃げた雄鶏』[『死んだ男』])において、それから脱却して、差異共立の思想に到達したのである。つまり、ロレンスなりに、ポスト・モダンからトランス・モダンへと開眼したのである。ロレンスが『アポカリプス』で説いたコスモスとは、志向性のコスモス、 Media Pointの宇宙であろう。また、そこで批判されている、権力志向のキリスト教(イエスの教えとは異なるとロレンスが考えたもの)とは、ルサンチマンキリスト教であり、同一性の志向性のキリスト教であろう。先に言った、超越論的同一性のキリスト教である。
 別稿で、先に考えた超越論的構造について、本件の視点から再考したい。


p.s. 補足すると、同一性の志向性が光の志向性であり、差異の志向性が闇の志向性である。そして、本来の志向性、対志向性、即非志向性は、光と闇の即非的志向性である。Twilightの志向性とも言えよう。
 ここで、ニーチェのアポロとディオニュソスを考えると、正に、これに当てはまるだろう。同一性の志向性がアポロであり、差異の志向性がディオニュソスであり、両者即非で一つの神性を表わすのである。正に、陰陽である。
 ところで、ディオニュソスは、破壊や解体の作用をもつが、ディオニュソス的一体感とは何だろうか。ニーチェは破壊の恍惚感と言っている。三島由紀夫的である。これは、同一性が解体されて、差異に還元されたときの根源・原初的歓喜ではないだろうか。思うに、同一性から差異へのプロセスと見るべきだろう。そうならば、根源・原初的即非歓喜ということが考えられるだろう。ただ、差異だけならば、破壊だけであり、一体感はないだろう。
 視点を変えると、ディオニュソスとは、同一性が解体して、差異のエネルギーが解放(放出)されるということだろう。この差異のエネルギー、不連続性のエネルギーが一体感を生むのではないだろうか。
 ではなぜ、一体感なのだろうか。それは、同一性の個別・個体性の枠組みが解体して、前個別・前個体的なエネルギーが発動、Media Pointが賦活するからではないだろうか。脱主体的な、差異即非のエネルギーが発動するからではないだろうか。つまり、差異即非が、同一性=個別・個体化を超越した、メディア共鳴的様態だから、一体感を生むのではないだろうか。
 ところで、最後に三島由紀夫について簡単に触れると、どうも、彼のニヒリズムは、近代的同一性に対する反動であり、ポスト・モダン的であると言えよう。身体的同一性を志向しているのである。同一性の有に対して、差異の無(=神秘主義)に、いわば、取り憑かれたと言えよう。もっとも、その両極の間において、かいま、道徳を見いだしたと思われる。つまり、超越性ないしは超越界(叡知界)を感得したと思われる。彼の阿頼耶識論(『豊饒の海』の『暁の寺』)は、それを示唆していよう。阿頼耶識と世界との間に道徳を見るのである。
 別稿で、輪廻転生について再考したい。