備忘録(試行錯誤):Media Pointとポスト・モダン哲学

備忘録(試行錯誤):Media Pointとポスト・モダン哲学


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


今は、ざっと述べたい。
論点は、Media Pointとポスト・モダン哲学の差異の関係である。結局、簡単に言えば、差異と差異の間に空虚ないしは穴を認めることがポイントである。ドゥルーズは差異を連続化させて、その穴を埋めようとした。特異性も連続化されてしまった。デリダは、執拗に、差延を説いて、連続化を否定した。ハイデガーは、穴を存在とした。これを、デリダは、批判した。確かに、存在という概念は、現前性である。デリダは鋭敏である。
 結局、不連続な差異から、連続性が発生するとき、超越論性が生まれる。これが、同一性構造である。この超越論的同一性構造を解明する必要がある。端的に、超越論性とは何かである。
 結局、超越性に基盤がありながら、それが、潜在化して、同一性構造を形成した差異のことではないだろうか。本来は差異であるが、それが潜在化して、同一性構造をもつということではないか。差異が無意識化した同一性構造である。超越的差異の超越性が失われる。つまり、超越性が超越論性に変換するのではないか。何故なら、差異が同一性化されているからである。超越性という位置が、喪失される。つまり、差異が即非様相にあるときは、垂直性をもっている。しかし、同一性化されると、即非様相が喪失される。連続性に変換する。この連続性に変換したときのMedia Pointが、超越論的同一性構造ではないのか。
 同一性を産出する力点として超越論的構造が発生するのではないのか。つまり、垂直から水平への変換点としてMedia Pointがあるが、同一性が発現するとき、垂直性と水平性が結合化されて、すべて、水平化されるのであるが、そのとき、水平性における垂直性の名残(痕跡)として、超越論的構造が発生するように思える。だから、空虚、穴が構造になるとも言えよう。つまり、垂直性が構造となるのであるが、それは、発現する水平性よりも、必然的に高位にあるのである。もっとも、高次元ではなくなっているが。
 とりあえず、これで、超越論的同一性構造を説明したとすると、先に言った超越論的差異とは何なのだろうか。これは、ほとんど無意味な言葉ではないだろうか。否、そんなことはないだろう。
 超越論的同一性構造と同じ位置において活性化される差異のことではないだろうか。超越論的構造において賦活された差異のことではないだろうか。
 そう考えると、先に考えた図式は破棄しなくてもいいだろう。即ち、

1.超越的差異⇒2.Media Point⇒3.超越論的差異⇒4.超越論的同一性構造⇒5.同一性

1は、超越界であり、3〜5が現象界である。そして、ポスト・モダンとは、基本的には、3を基盤にしている。それぞれ、表現が異なるが、ハイデガーの存在、ドゥルーズの差異、そして、デリダ差延がそうである。
 では、不連続的差異論はどうだろうか。それは、明らかに、超越論的差異を超越したものである。だから、ポスト・モダン哲学には入らない。フッサール現象学が一つの先駆と考えられるトランス・モダン哲学に属するだろう。そう、1の超越的差異に到達したのである。
 すると、先の論述は訂正しないといけない。不連続的差異論はポスト・モダン理論には入らない。なぜなら、超越論性を超越しているからである。つまり、同一性を超越した結果、つまり、差異が解放された結果、差異が超越化したのである。そして、また、同一性との関係であるが、同一性を否定したわけではないので、同一性との共振可能性が発生したのである。(そのため、プラトニック・シナジー理論へと進化できたのである。)
 今はここで留めたい。