「わたし」とは何か:Media Pointと同一性:死と生

「わたし」とは何か:Media Pointと同一性:死と生


テーマ:新輪廻転生仮説


「わたし」とは、端的に、何なのであろうか。私が不思議に思うのは、今生きている人も、いつかは死者になるのに、生が当然のことのように語っていることである。生は、せいぜい百年である。
 そう、何を述べたいのか思い出した。死についてである。死は眠りならば、それは、いつかは覚めるのではないだろうかと思った。問題は、死はイデア界にあると思うが、Media Pointとはどう関係するのか、である。
 直感で言おう。Media Pointにおいて、超越界と接する。死は、当然ながら、同一性(現象・物質)との関係を断たれて、Media Pointにおいて、超越性と深く通じるだろう。超越界の超越光に、Media Pointにおいて、いわば、浸るのではないだろうか。
 私は何を言いたいのだろうか。つまり、イデアとMedia Pointの関係である。イデアは原自己であるが、個体性がない。Media Pointにおいて、原自己/原自我、原個体性が発生する。
 死んだとき、個はMedia Pointへと還元されると思われる。原個体性へと還元される。(これを先に魂と呼んだのである。)ここでは、連続性と不連続性がゆらいだ様態にある。いわば、夢の様態である。あるいは、芸術の様態である。
 では、イデアとMedia Pointとの関係はどうなのか。イデアは高次元にある。イデアを霊とすれば、Media Pointにおいては、イデア=霊が連続化して、同一性=自我へと展開するのであり、この場を魂soulと呼べるだろう。先に、Media Point=魂soulと呼んだのも同じ意味である。図式化すると、

1.イデア(=霊spirit)⇒2.Media Point(=魂soul)⇒3.連続的同一性(=自我ego)

となる。ただし、Media Pointは、イデアと自我の交叉点である。
 ここで本論にもどると、死は、2のMedia Point=魂soulへと回帰すると思われるが、そのとき、同時に、イデア=霊にも回帰しているのではないだろうか。つまり、魂であり、かつ、霊であるということではないだろうか。
 この二重性が死において、存するのではないだろうか。原点の未生は、イデア=霊であるが、死後は、単純にイデア=霊へと還帰するのではなく、Media Pointへと環帰するのではないのか。
 ここで宗教的比喩で表現すれば、天国がイデア界であり、煉獄・地獄がMedia Pointであり、地上が現象界である。閻魔大王はMedia Pointに存するということになるだろう。
 より精緻化しよう。今、領域と魂とが混同されている。即ち、Media Pointは、魂であり、同時に、領域となっているのである。これをどう考えるべきか。直感では、それでいいのではないだろうか。Media Pointは領域であり、且つ、魂であるということで。
 しかしながら、個の問題をどうするのかということになるだろう。魂は個である。思うに、イデア界に接しているということでは、普遍的な領域であるが、個々の魂が存在する点では、個的であると言えるのではないだろうか。
 まだ、不明晰なので、明確にしないといけない。端的に言えば、Media Pointと個との関係は如何に、である。表現が難しい。Media Pointは前個であり、且つ、個である。即非的様相としてのMedia Pointである。これは、個ではない。だから、魂とは、個ではないと考えるべきである。つまり、即非的様相としての魂soulである、ということになる。そして、これは、同時に、領域でもあるということになるだろう。
 では、「わたし」の魂と「あなた」の魂と「彼」の魂、等々はどういうことになるのだろうか。すべての魂はMedia Pointになる。それは、別々のMedia Pointであると考えられる。Media Pointの多元性があるのである。(そして、イデアの一元性があるのである。一元的多元性、一神教多神教。)
 
 さて、ここで、物質的現実界に返ると、ここでは、物質的論理が支配する。経済的論理が支配する。サブプライムローンのように、もともと問題のあるローンはバブル化して崩落するのである。また、日本の財政も問題があり、破産寸前であるから、それに対処する必要があるが、この財政問題を作ったのは官僚である。また、それを許した政治である。
 官僚や政治家たちは、近代的唯物論に染まっているから、イデア界=霊界を無視している。彼らは、死んで、Media Pointの地獄・煉獄において、苦しむことになる。(参照:ダンテの『神曲』の「地獄篇」)
 そのことよりも、官僚や政治家が、霊性を知らないことが問題である。それは、差異・差異共振性であり、そこでは、他者との共生・共立が本質的である。民主主義とは根源的には、霊性に根差していると考えられるのである。そう、霊的民主主義である。これを官僚や政治家、さらには国民が知らないから、日本の財政は垂れ流し的に杜撰化したと言えるのではないだろうか。
 トランス・モダンの民主主義とは、霊的民主主義である。超越的民主主義である。もっとも、Media Pointにおける霊性と知性との対話が実践的になるのである。
 以上、試行錯誤したので、後で整理したい。