空想&妄想:Media Pointと魂:構造と連続性:輪廻転生はあるのか、

空想&妄想:Media Pointと魂:構造と連続性:輪廻転生はあるのか、否か


テーマ:メディア・ポイントMedia Point



以下は、残暑の夜の空想・妄想であるので、読まないこと。


今日も蒸し暑さの不快さのため、頭脳の働きが鈍くなっているが、本件について一言述べておこう。
 Media Pointの構造や意味等に関しては、まだまだ、不分明である点が多いだろう。ここで、試行錯誤すれば、超越的差異は、イデア対微粒子(ついびりゅうし)であると言えよう。
 このイデア対微粒子がMedia Pointにおいて、水平軸へと転換される。このとき、イデア対微粒子と連続的微粒子との中間体が発生するのではないだろうか。不連続的微粒子と連続的微粒子との即非的中間体ということになる。差異的微粒子と同一性的微粒子の中間体ということでもある。
 問題は量子である。これまで、この中間体を量子と見てきたと言えよう。しかし、私は量子力学は物質主義的に量子を捉えているに過ぎないと言った。物質のスクリーンに映った「量子」の映像を量子と呼んでいると考えている。つまり、私が考える量子とは、超量子となる。即ち、超量子を量子力学は量子と捉えているということになる。
 以上の中間体は超量子に当てはまる。これが、超越的エネルゲイアであり、ダークエネルギーの可能性はある。
 ここで本テーマに飛躍するように移るが、魂と言ったときは、連続性の把握である。連続的微粒子における同一性の視点からMedia Pointを見て、魂と言っているのではないだろうか。
 発想を変えよう。Media Pointにおいて、連続的同一性の構造が発生する。連続的微粒子の構造である。(これが、通俗的イデアである。プラトンのコーラはMedia Pointであろう。)これは、自我の構造である。それに対して、差異がMedia Pointとして存する。これは、不連続性と連続性の即非構造である。そして、これを私は魂soulと呼んだのである。
 この場合、不連続性はイデアであり、連続性は同一性構造である。そして、同一性構造から同一性=物質化して、自我が発生する。同一性構造は原自我に過ぎない。自我は同一性構造から、他者を同一性化する。同一性認識の始まりである。しかしながら、Media Pointが起源であるから、不連続性・差異が潜在している。自我は、起源の不連続性・差異を隠蔽するように作用する。(反近代主義は、自我への反作用として、起源へと回帰するのであるが、これは反動である。ポスト・モダンは反近代主義であろう。)
 差異の不連続化によって、意識はMedia Pointへと回帰する。これは、イデアと同一性構造の即非的交叉点である。(思うに、デリダ差延とは、Media Pointを示唆・暗示していたと考えることが可能である。)ここでは、もはや、連続的同一性=自我はない。ただ、原自我の構造はある。
 問題は、原自我ないし同一性構造は、現象において、感覚作用を受けるのだろうか。感覚作用と受けるのは、連続的同一性という自我身体である。構造自体は感覚作用は受けないだろう。そうならば、カルマは無いことになる。輪廻転生もないことになる。
 しかし、意識は、本源的には、志向性から発している。それは、自我身体をも貫いているはずである。差異的志向性が、同一性志向性に転化しているに過ぎないのである。
 だから、思うに、同一性志向性の作用が差異的志向性に作用しているはずである。端的に、それは否定の作用である。この否定作用はどのように差異的志向性にもたらされるのか。
 否定作用は差異の阻害である。イデアへの阻害である。この阻害がイデアにもたらされる。しかし、これは、Media Pointにおける刻印・影響である。連続性の力学が不連続性の力学を阻害するのである。そして、もし、Media Pointが永劫的ならば、それはカルマになる。
 Media Pointの存在をどう考えたらいいのだろうか。わかりやすく言えば、動的なイデアエネルゲイア)である。(ここで、オルテガ・イ・ガセットの生の理性の概念を想起する。)これは、一時的なものなのか、それとも、永続的なのか。
 思うに、これは、普遍的ではないだろうか。ここには、諸現象が記憶されるのではないだろうか。普遍的な現象情報アーカイブではないだろうか。オカルティズムで言うと、アカシック・レコードである。普遍的記憶媒体である。全知ではないだろうか。そして、ある意味では、全能である。だから、「神」である。これは、創造神である。古事記では、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)であろう。
 このように作業仮説すると、魂とは、Media Pointの個別性ではないだろうか。Media Pointは類であり、魂は個別ではないだろうか。思うに、Media Pointは多種多様性ではないだろうか。「わたし」であり、「あなた」であり、「彼」であり、「彼女」であり、「彼ら」、等々であるのではないだろうか。そして、そこでは、森羅万象・万有の「魂」が重層化しているのではないだろうか。
 そして、「魂」の相違とは、「魂」の振動数の違いに拠るのではないだろうか。大きい振動数が、より精神的であり、小さい振動数はより物質的になるのではないのだろうか。