差異のコスモスと同一性宇宙:Media Pointにおけるコスモスと宇宙

差異のコスモスと同一性宇宙:Media Pointにおけるコスモスと宇宙


テーマ:トランス・モダン・コスモス


テレビのニュースを視聴して、今日の暑さが、主観的なものだけではないことを確認したが、本当に、やる気をなくす暑さである。言わば、時間差攻撃で、たまらない。焦熱地獄に陥ったのか。
 
 さて、今日は、差異の次元と同一性次元について、いろいろ試行錯誤した。一番の問題点は、虚次元=高次元=超越界(イデア界)から、どのような仕組みで、三次元空間(四次元時空間)が発現するのかという点であり、結局、これは、難解で答えが出ないままであったが、結局、虚次元=高次元=超越界は、三次元空間を包摂しているという点を確認した。超次元には、上下・左右・前後の対の空間性が内包されているということを考えた。そして、それは、作家や詩人が直感で捉えた「コスモス」であると思ったのである。
 今日の収穫は虚次元=高次元=超越界(イデア界)としての「コスモス」の概念を得たことである。私たちは、日常、三次元空間ないしは四次元時空間という世界・宇宙を見て、その中で暮らしているが、通常、「コスモス」というものを知覚・意識・認識しない。(「コスモス」とは、天文学者が使用する術語としてのコスモスではなく、作家、詩人、神秘家が使用するものとしての「宇宙」である。簡単に言えば、宮沢賢治の作品にある宇宙が「コスモス」である。)
 西洋近代思想史から言うと、ルネサンスまで存した古代宇宙論コスモロジー)が近代科学の勃興によって破壊された。古代的コスモス(アリストテレス的宇宙観)は、コペルニクスガリレオの近代的宇宙観(近代天文学)によって、崩壊した。そして、自然科学や近代的技術が、主要な、主動的な知識・技能となり、今日まで続いていると言える。
 この自然科学・近代的技術等によって、三次元空間ないしは四次元時空間の宇宙観が生起したのである。もっとも、相対性理論量子力学によって、近代的宇宙観は解体して、現代的宇宙観が形成されたと言えよう。しかしながら、基本的な三次元空間ないしは四次元時空間の概念はそのまま継続している。(p.s.  最近、物理学者リサ・ランドールの提起する隠れた次元をもつ五次元宇宙論に注目が集まっている。物理学は、超越界へと一歩歩み出したと言えよう。)
 この近代科学の動きとは別に、作家(芸術家)、詩人、神秘家等は、「コスモス」の思想を復活させたのである。これは、近代合理主義から見ると、非合理主義である。主体と客体とが融合する宇宙観である。近代的主客二元論を超克する意味があるが、理論的に、明確に為されたものではなく、直感的である。
 さて、ここで、プラトニック・シナジー理論(PS理論)を考えると、虚軸の超越界を説いているのであるが、それは、i*(-i)という超越的差異の即非関係を説いている。これは、正に、「コスモス」であると言えよう。差異であるiとその他者である差異-iとが、即非的に共振している様態を提示しているのである。
 ここにおいて、上下・左右・前後の三次元が包摂されていると言えるだろう。四次元ないしは五次元(時間も加えて)としての高次元=虚軸=超越界(イデア界)である。また、ここでは、「わたし」と「他者」とが、即非共振しているのである。ここでは、森羅万象が即非共振していると考えられるのである。ここで想起するのは、D. H. ロレンスの畢生の名作『逃げた雄鶏(死んだ男)』の一節である。宇宙の不可視の薔薇に包まれる様子を描いているが、その宇宙の薔薇こそ、高次元=虚軸=超越界(イデア界)に相当すると考えられるのである。以下、引用する。

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「 『神殿を出たふたりを夜明け前の冷たい空気が包んだ。扉を閉じるとき、彼は再び女神を眺めた。彼は言った「見よ、イシスは情ある女神ではないか。優しさに満ちた女神ではないか。偉大な神々は温かな心を持ち、優しい女神を持っている」 
 女はマントに身を包み、無言で、盲いたように、黄金の蕊(しべ)に新鮮な生命を秘めて再び柔らかに閉じようとする蓮のように、思いに沈みながら家に向かった。彼女は何も見なかった。彼女は自分自身の花弁に鞘のように包まれていたからである。彼女はただこう考えるばかりであった「私はオシリスに満たされている。私は甦ったオシリスに満ちている!」
 しかし男は海に降り注いでゆく夜明け前の生き生きした星を、水平線に向かうシリウスを見詰めていた。そして彼は考えた「なんとしなやかなのだろうか。露に濡れた暗闇のなかに暗い花弁を咲かせた眼に見えぬ薔薇のようだ。柔らかな線と襞の豊かさ! なんと満ち満ちているのだろう、そして、いかなる神々も及ばぬほど偉大なのだ。私をおし包み、私をその宇宙の偉大な薔薇の一部分にする。私はその芳香の微細な一粒に似ている、そして女はその美の微細な一粒なのだ。世界はおびただしい花弁を持つ暗闇のひとつの花でり、私はその芳香に触れているのだ」
 そうして、彼は絶対の静寂と全的な感触につつまれて夜の明け方、洞窟で眠った。夜が明けると風が起こり、冷たい雨を伴った嵐になった。彼は洞窟のなかで、安らかな感触と喜びを味わい、海の音と地をうつ雨の音を聞き、頭をたれていつまでも濡れつづけている一本の白と黄金色の水仙を悦ばしげに眺めつづけていた。彼は言った。「これが、接触するということが大きな償いなのだ。灰色の海と雨、濡れた水仙と私が待っている女、眼に見えぬイシスと眼に見えぬ太陽、それらはみな触れあい、一体となっている」』396〜387ページ 伊藤礼訳 『世界文学全集 ロレンス 息子と恋人/死んだ男』河出書房1968年」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10009947916.html

「男は、夜明け前の生気に満ちた星々が海の上に雨のように降り注ぎ、天狼星が海の縁近くで緑色の雨のように降り注ぐのを眺めていた。そして、思った。「何という造形の妙だろう。何と曲線と襞(ひだ)にあふれていることか! まるで、露と暗闇が触れ合うところに、目には見えない黒い花弁を開くバラのようだ。何とあふれるほど充実していることか、神々も及ばぬその偉大さ。それはわたしを取り巻くように傾き、わたしはその一部となる。この大いなるバラの宇宙の一部なのだ。わたしはその香料の一粒、そしてあの女はその美の一粒なのだ。今や、世界は多くの花びらを開いた一輪の暗闇の花であり、わたしはその香りのなかに、まるで肌を触れ合うように浸っている。」
 こうして、触れ合いの全き静寂と充足に浸ったまま、男は洞のなかで、夜明けとともに眠りに入った。夜がすっかり明けたころ風が吹き出し、冷たい雨をともなった嵐となった。それで男は洞のなかにとどまって、触れ合っている安らぎと歓びに浸って、海の音や、知を打つ雨の音を聞き、一輪の白と金に彩られた水仙が、雨に濡れてうなだれたまま、まだ今も依然として濡れているのを見て大喜びだった。彼はつぶやくーー「この触れ合いのうちに身を浸すこと、これは、偉大な贖罪だ。灰色の海も、雨も、濡れた水仙も、わたしの待つあの女も、目に見ぬイシスの女神やあの太陽も、すべてが触れ合いのうちに、ひとつのものになっている。」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10013869782.html

D.H.ロレンス短篇全集 5』岩田昇訳 大阪教育図書2006年 218〜219ページ」
なお、訳では、イシスをアイシスとしている。

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 さて、ということで、虚軸・超越界(イデア界)・高次元は三次元空間を包摂した差異即非共振界=「コスモス」であるということになったが、問題点は、 Media Pointとどう関係するのかである。Media Pointにおいては、超越的差異と連続的同一性がゆらいでいる。前者は「コスモス」であるが、後者は物質的現象界である。文学で言えば、ファンタジーの世界に相当する。空想世界であったり、三次元現象世界であったりするのである。しかしながら、「コスモス」とは、虚軸・超越界(イデア界)・高次元世界であり、それは、宗教的には、神界であると言えよう。天国・極楽浄土・涅槃である。高天原エデンの園であろう。エリュシオンである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%B3
 そのように考えると、魂は、「コスモス」に存することになるが、これをどう説明するのかが問題である。私は先に、超越的差異=霊spiritと考え、 Media Point=魂soulと考えた。その後、霊界を超越界からMedia Pointに移した。つまり、霊界に魂が存するのである。しかしながら、今や、魂は霊界を超えて、超越界に存することになった。これをどう考えたらいいのか、である。
 結局、霊も魂も同一であるということではないのか。i*(-i)とは、霊であり、魂である、つまり、霊魂であるということである。そして、これは、神でもある。ここで、ウパニシャッド哲学の「汝はそれなり」ないしは梵我一如を想起する。あるいは、東方キリスト教の神化思想(テオーシス)を。
 そして、この唯一神は、多神教なのである。一即多である。唯一普遍の神は、多神なのである。ヤハウェアッラーは当然、同一である。そして、それは、天之御中主神でもある。アメリカ・インディアンのグレート・スピリットでもある。万教帰一である。叡知一致である。
 今は、ここで留めたい。


p.s. ロレンスのコスモスは、上記引用の箇所では、超越界というよりは、Media Pointに近いように感じられるかもしれない。しかし、Media Pointにおいては、差異と同一性との相反的一致の「現象」が基本的であると考えられるので、やはり、Media Pointではないだろう。
 しかしながら、ロレンスのコスモスは、同一性(現象)を包摂した差異と考えられるので、Media Pointに相当すると言える。ロレンスの描写は、流石に、感覚・官能的である。確かに、現象感覚的な表現ではあるが、本質は、差異共振的超越界=「コスモス」の表現であると考えられるのではないだろうか。
 では、いったい、ロレンスの「コスモス」とは、超越界なのか、Media Pointなのか、である。
 今日の直感を尊重すれば、それは、超越界でなくてはならない。コスモスは超越界なのである。そう、コスモスとしての超越界は、三次元空間を包摂しているはずである。Media Pointは、いわば、超越界の屈折点であり、そこから、三次元空間現象が発現するのである。しかし、超越界に、三次元空間性は内包されているのである。いわば、現象を内包していると言えるのではないだろうか。
 とまれ、今は、万有の即非共振界として、ロレンスのコスモスを考えて、それは、超越界であるとしておきたい。