超越界から三次元ないしは四次元への展開の解明

超越界から三次元ないしは四次元への展開の解明


テーマ:トランス・モダン・コスモス


本件に関して、今は、随想形式で、試行錯誤していきたい。その中から、ヒントが得られればいいと思っている。


 例えば、一次元空間と二次元空間を比べよう。前者は、後者に包摂されている。次に、二次元空間と三次元空間を比較すると、平面は立体に包摂されている。次に、三次元空間と四次元空間を比較すると、帰納法的に、前者は後者に包摂されているということになる。(参照:ウスペンスキーの四次元論)
 問題は、時間であるが、時間は、Kaisetsu氏の解明によって、Media Pointと見ることができるので、時間次元はそう把握する。それを四次元と考えると、超次元・高次元は、五次元となる。(物理学者リサ・ランドールは、隠れた次元を五次元と考えている。)
 問題は、五次元から、Media Point=時間次元を介して、三次元へと展開するのか、それとも、五次元⇒Media Point=四次元⇒Media Point⇒三次元⇒Media Point⇒二次元⇒Media Point⇒一次元というように次元を降下するごとに、Meidia Pointを介するのか、である。そうならば、書き直して、五次元⇒Media Point⇒四次元⇒Media Point⇒三次元⇒Media Point⇒二次元⇒Media Point⇒一次元となるのかもしれない。もっとも、これまでの考えでは、後者はありえないだろう。
 しかしながら、Media Pointを介して、三次元空間が物質化するというのは、なにか唐突な感もあるが、その通りに考えれば、差異の志向性とは、同一性的志向性となり、それは、三次元的同一性志向性となるだろう。つまり、立体的同一性志向性である。三つの垂線をもった同一性志向性である。これを、とりあえず、原三次元志向性とでも呼ぼう。
 しかしながら、原三次元志向性とは、元々、差異の志向性である。すると、差異即非共振的志向性が本来的である。これと原三次元志向性とはどう関係するのか。これまでの考え方では、差異の志向性が、Media Pointを介して、同一性の志向性へと展開して、物質化する。そして、差異が超越的に潜在している。
 この考えに従って、差異即非共振的志向性(差異の志向性)と原三次元志向性を包括するならば、差異即非共振的志向性は原三次元志向性を包摂しているということではないだろうか。そして、Media Pointにおいて、三次元志向性(三次元同一性志向性)となり、差異即非共振的志向性は、Media Pointとして、超越的に潜在しているということではないだろうか。
 そうすると、三次元志向性が三次元空間(現象空間)を実現(物質化)させ、Media Point(=時間次元・四次元)において、差異即非共振的志向性=超越的次元(高次元・五次元)が交叉しているということになるのではないだろうか。
 そのように考えると、超越的差異とは、原三次元的差異ということになるのではないだろうか。つまり、原三次元的差異が、Media Pointにおいて、同一性化するが、それは、端的に、三次元空間化である。即ち、


1.超越界:原三次元的差異⇒2.時間界:Media Point(四次元)⇒3.現象界:三次元空間(同一性・物質空間)


と図式化されるだろう。そのように考えると、超越的差異=イデアは、言い換えると、原三次元性的差異即非共振性となるだろう。原三次元性と差異即非共振性が結合している様相にあると言えよう。比喩的に言うと、上下・左右・前後の三次元空間を考えると、超越界では、上・即非・下、左・即非・右、前・即非・後という原三次元即非様相にあるだろう。
 では、差異即非共振性はそこではどう表現されるだろうか。上下の場合を考えると、上*下が、差異即非共振性ではないだろうか。すると、全体では、上*下/左*右/前*後となるだろう。
 しかしながら、これでは不十分である。何故なら、原三次元的差異即非共振性(=超越的差異・イデア)とは、始点が一つであり、終点も一つであると考えられるからである。だから、例えば、(上・左・前)*(下・右・後)のようなペアを考えなくてはならないだろう。これが、原三次元的差異即非共振性の表記となるだろう。しかし、・を排して、(上*左*前)*(下*右*後)とする方が的確かもしれない。これが、i*(-i)の空間的意味合いである。
 そして、これが、先に私が作業仮説したコスモスである。作家、詩人、画家、音楽家、哲学者、神秘家等が直感したコスモスがこれと思われる。しかしながら、正確に言うならば、コスモスは、Media Pointにおけるそれである。 
 問題は、そのような直感されたコスモスがこれまで、理論化されてこなかったことである。(もっとも、今日、物理学は、五次元として、コスモスを理論化するようになっている。)これは、直感されたコスモスが、本来、超越的であるが、近代主義においては、内在性の思考が主導的、中心的なために、明晰に把握できなかったためと考えられよう。単なる、詩人や天才の卓越した想像・空想・幻想としか考えられないできたと言えよう。誰が、宮沢賢治のコスモスを真実在と考えたであろう。誰が、ボードレールマラルメのコスモスを同様に考えたであろう。ましてや、ロレンスのコスモスをである。
 ここで、作家等の直感で捉えたコスモスの問題点であるが、Media Pointと同時に、連続性・同一性において把捉される傾向があることである。つまり、言い換えると、一体性を強調するので、全体主義的傾斜をもちやすいということである。しかしながら、脱同一性化して、Media Pointのコスモス、超越界として看取すべきであると考えられる。今はここで留めたい。


注:以上は、次のブログから独立させたものである。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10047685416.html