Kaisetsu氏の画期的な交換価値=差異価値=Mediaエネルゲイア論:差

Kaisetsu氏の画期的な交換価値=差異価値=Mediaエネルゲイア論:差異共振的共同体経済


テーマ:差異通貨・貨幣論


以下のKaisetsu氏の考察は貨幣論として画期的ではないだろうか。私は、マルクスプルードンの交換価値=同一性価値論に囚われていて、交換価値に差異価値を認めることできなかったが、Kaisetsu氏は、発想を転換して、交換価値に差異価値を認めている。
 貨幣がMedia(PS理論におけるMediaである)であるということから、必然的に、貨幣における交換価値は、Media エネルギーをもち、差異価値をもつと言える。ただし、問題は、交換価値は、一般には、差異価値と同一性価値が綯い交ぜになっていることにあるのではないだろうか。言い換えると、まさに、不連続的差異論が問題にした事象が差異としての交換価値に発生しているように思えるのである。すなわち、不連続的差異と連続的差異=同一性との混淆(カオスモス)が発生していると考えられるのである。同一性価値と差異価値の混淆である。
 PS理論から見ると、貨幣=Mediaは、確かに、Media Pointとしては、純粋に差異価値であるが、それが、Mediaエネルギーとして、経済として発現すると、同一性価値を帯びるのではないだろうか。ここで図式化すると、差異・交換価値⇒差異価値・同一性価値となるのではないだろうか。換言すると、Media Point⇒Media Field(Economy)ではないだろうか。
 Media Fieldは、個々人の自我の世界でもあるだろう。ここにおいて、個人は、自我の欲望に即して、貨幣のもつ同一性価値を増殖しようとするのではないだろうか。言い換えると、Media Energyが、自我における同一性価値へと転化すると考えられるのである。
 しかし、同時に、自我における自己において、すなわち、差異価値において、垂直性・虚軸性が発現している。つまり、差異本来のエネルゲイアが発現していると考えられるのである。ここで、例えば、ファッション価値が発生すると言えよう。美的価値、芸術的価値、宗教的価値、等である。だから、やはり、 Media Fieldにおいて、同一性と差異が混淆(カオスモス)しているのである。
 資本主義、とりわけ、現代資本主義、情報資本主義は、このMedia Fieldに存していると言えるだろう。つまり、個人におけるMedia Fieldを取り込むように、情報化した資本主義であるということになるだろう。
 悪い例であるが、小泉「改革」(郵政民営化)が成立したのも、このMedia Fieldを取り込んだことに拠るだろう。この差異と同一性とが連続的に混淆した領域(カオスモス)とは、言い換えると、まさに、ポスト・モダン空間である。Media Field=ポスト・モダン空間である。
 そして、ここにおいて、高度情報という交換価値が、同一性価値=金融価値へと転換されているのではないだろうか。そして、端的に、当然、グローバリズムは、このMedia Field=ポスト・モダン経済空間に「生息」しているのであり、個々人は、この同一性価値=金融価値に収斂する全体主義世界にはまり込んでいるのである。自由であると同時に、不自由なのである。これが、いわば、ポスト・モダン的全体主義である。
 この視点から、本来的自由を考えると、すなわち、Media Point的自由を考えると、差異・交換価値へと、いわば、フィードバックする経済が必要である。すなわち、純粋差異・交換価値経済である。同一性価値=金融価値を最終帰結とせず、いわば、反転・逆転する経済である。
 理論的に言えば、純粋差異・交換価値経済とは、純粋差異・交換価値共振的経済である。あるいは、Media Point 共振的経済(Media共鳴経済)である。
 思うに、Media Point Currencyメディア・ポイント・貨幣(通貨)が必要になるだろう。純粋差異エネルゲイア(エネルギー・強度)を媒介する貨幣・通貨である。
 Media Point Currency(略して、MP貨幣ないしはMP通貨)は、霊的貨幣、霊的通貨とも言えるものである。あるいは、単純に、差異貨幣、イデア貨幣である。そして、PS理論から、純粋差異(共振・即非差異)は、同一性=物質を包摂するのであるから、それは、端的に、ポスト・ポスト・モダンのトランス・モダン貨幣である。おそらく、今日の電子マネーはポスト・モダン貨幣である。それを乗り越えた、純粋差異貨幣としてのトランス・モダン貨幣が考えられるのである。
 同一性価値の増殖でなく、差異価値の構築を目指す貨幣である。差異的秩序(差異コスモス社会)を目指す貨幣である。ここで、Kaisetsu氏の銀本位制という考えは、差異貨幣制の可能性をもっている。
 差異貨幣とは、差異経済、質的経済を志向するのであり、同一性の量的成長経済を乗り越えるものである。まさに、PS理論的経済である。ここでは、同一性価値=金融主義価値との癒着はないのである。差異共振的経済、差異共振的企業である。これは、具体的に何なのであろうか。
 ここで発想を変えて述べると、現代の社会問題、老人介護や福祉や医療、年金等の問題は、直感では、差異共振的経済の問題なのである。換言すると、差異共生的経済である。私は何を考えているのだろうか。
 現代の社会問題に、差異共振・共生的経済の胚芽があるように思えるのである。ここでは、端的に、個と個との共振・共生が必要になってくるのである。ここにおいて、差異・交換価値が生かされるべきである。そう、差異・共振価値、差異・共生価値である。トランス・モダン経済の芯はそこにあるように思えるのである。
 そう、共同体の問題でもある。差異共同体である。だから、差異貨幣は、差異共同体経済貨幣である。トランス・モダン経済がそこに芽生えるのである。
 差異共同体のための差異価値の資金が必要である。例えば、年金が、ファンドではなく、差異共同体の構築のための投資として使用されたとしよう。それは、一見、投資でなく、贈与のように見えるかもしれないが、それは、差異投資である。年金資金で、差異共同体を創造構築するのである。それは、消費のように見えるが、それは、必要な差異の生成消滅事象を意味するのではないだろうか。差異は、自然であり、生成し、また、消滅するのである。エネルゲイアなのであるから。【だから、差異・交換価値から考えると、量的経済成長路線はおかしいのである。また、単純に、質的経済成長路線もおかしいだろう。なぜなら、差異・交換価値は、生成消滅するのが、必然であるからである。それでこそ、永遠である。イデアから物質が生まれては、消滅し、また、新たに、イデアから生成するのである。】
 この差異共振・共生・共立経済(トランス・モダン経済)は、脱資本主義経済であると考えられる。ポスト資本主義、トランス・キャピタリズムである。つまり、+成長という考えを否定するからである。その代わり、純粋生成消滅という考えによっているのである。まさに、東洋、新東洋的理念である。
 ここで、想起するのは、消滅貨幣(減価貨幣)を考えたゲゼルであるが、私は、それは、うまく行かないと思う。それは、経済が停滞すると思う。やはり、リターン、反転、回転する発想が必要なのである。同一性資本を差異価値へと消費的投資する必要があるのである。これは、量的な公共投資とは異なる。なぜなら、差異共同体を目指した消費的投資であるからである。あえて言えば、消滅的投資である。贈与ではない。バタイユの普遍経済の蕩尽でもない。
 同一性価値から差異価値への方向転換なのである。差異共振共同体創造・構築のための消滅的投資なのである。だから、他方で、経済成長が必要である。その同一性価値を差異共振共同体建築のために、消滅的投資するのであるから。つまり、資本主義と脱資本主義の結合である。今はここで留めたい。

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様式の実用性と非実用性 その2
2007.10.12 Friday
◆次の考察は、PS理論の応用として書いており、PS理論の成果を御存じない方には難解と思われるが、研究を推し進める方を重視した。

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 「花」の実用的観点からの分類と「使用価値」
 「花」の非実用的観点からのイメージと「交換価値」

◆「花」の「非実用性」⇒超越性⇒「虚数」性⇒Media⇒Media Point⇒「交換価値」

つまり、交換価値とは、「非実在価値」であり、「超越的行為」であり、「虚数的振舞い」と考えられる。⇒このことは、当然,PS理論の応用として導かれるものであり、PS理論の優秀性の証左である。

http://blog.kaisetsu.org/?eid=596675

『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu