まず、政治・経済の力学ではなく、私個人の印象・感想を語りたい:日

まず、政治・経済の力学ではなく、私個人の印象・感想を語りたい:日本差異共振伝統文化とPS理論


テーマ:日本再生・東洋ルネサンス計画


まず、政治・経済の力学ではなく、まったく私個人の印象・感想を語りたい。
 私は、農業地帯で育った。比較的近くに海がある。車なら、20分未満で行ける。とまれ、子どもの頃は、茅葺の家が周囲にほとんどであり、私も、それに住んでいた。また、道路状況も悪く、私が高校に自転車通学したときは、舗装された道路は、全体の五分の一程度であった。とにかく、私の印象は物質的貧しさである。これが、精神風景の基調である。
 しかし、いつ頃からであろうか。新築の家が増え、道路がほとんど舗装され、また、海岸には、企業の研修所等の建物が立派に建つようになっていた。そう、いろいろな大規模店も増えた。国道沿いの店舗がなにか外国風に見えたものである。時期的には、バブル頃であろう。外見的に羽振りがよくなったのである。
 私は、近隣の真新しくなった住宅を見て、この建物を造るための富はどこから入ったのだろうかと思ったのである。昔は、茅葺屋根のあばら家だったものが、新築の二階建てのモダンな住宅に変身したのであるから。海岸の、松林にたつ企業の研修所のような立派な建物を造る富はどこから来たのだろうか、素朴に疑問に思ったものである。
 私は単純素朴に、この田舎をモダンにする富はどこから来たのかと思ったのである。なにか、私が育った田舎ではなく、外国に居るような感じがした。外見の、物質的豊かさが、貧しい田舎を変身させてはいたのである。私は、その頃には、東京に住んでいたので、浦島太郎のような感じもしたものである。
 そう、私の思いは、前述したように、この富はどこから来たのかという疑問であった。なにか降って湧いたように感じられたからである。そのときは、東南アジア等の貧国から奪った富ではないかと思ったりした。とにかく、不自然な感じがしたのである。物質的貧しさが精神的風景であったのに、なにか突然、派手にモダンに変身したのであるから。
 結局、この変身は、金融資本の跋扈によるものと今では言えよう。金融資本が、マクベスの魔女の予言のように、農民を王にしたのだろう。金ぴかの農民にかえたのだろう。そう、ここには、公共投資が大きいと言えよう。農業地帯の道路は、今やほぼすべて舗装されている。道路も新たに造られたりした。結局、日本の政府は借金で、外見モダンな田舎を造ったのだ。そして、下の記事からもわかるように、借金する必要がないのに、米国債を買って、日本経済を歪めてしまったということだろう。ここには、国家社会主義と金融資本主義の癒着があると言えよう。これが、日本経済の癌である。岸信介路線と米国金融資本家との癒着構造が癌細胞である。
 安部前首相が戦後レジームからの脱却を唱えたが、それは形式的には正しいと言えよう。皮肉なのは、それが、祖父の岸信介路線からの脱却を意味したことである。
 ここで大雑把に、日本のこの癌細胞を死滅させる方法を考えたいが、今は、方向性だけを述べるにとどめる。結局、問題は、日本近代の特殊性が今日も尾を引いていることである。欧米の近代化を考えると、たとえば、イギリスの場合は、絶対王政があり、それが、ピューリタン革命(懐かしい言葉だ)で破壊されるが、名誉革命で、王制が戻るが、しかし、実質は、中産階級が支配的になり、自由主義、民主主義が進展したのである。私は、既述したように、欧米におけるルネサンスの意味が大きいと考えているが、欧米近代の基盤には、ルネサンスがあると言っても過言ではないだろう。これは、周知のように、個を基盤とする世界観の出現を意味する。だから、ここから、プロテスタンティズムが生まれるのも必然であると言えよう。私は西洋文明を批判するが、この個の世界観だけは、積極的に評価せざるをえない。
 しかしながら、個と自我が混淆されて理解されたのである。というか、個と自我は、自然状態では、混淆しているのである。これが、不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論が本質としてもっている解明点である。今日の哲学的問題もこの点にあると言えるのであるが、日本においては、どうなのだろうかということである。
 日本文化における個とは何か、である。これについては、以前愚考したが、日本的個というものはあるのである。それは、実は、PS理論に近いものであったと思えるのである。即ち、日本的個とは、本来、差異共振的であると思えるのである。日本語のもつ「述語」中心性がそれを示唆していると思われるのである。「空を見る」というとき、主体である「私」と客体である「空」は、「見る」という述語において、一如であるのである。これが、端的に差異共振的であると考えられるのである。
 ただし、当然、自我的同一性は強くはなかった。そう、日本近代化とは、結局、日本文化の差異共振性を忘却して、西洋的自我主義を導入することではなかったと思えるのである。つまり、それまで日本文化にはなかった、自我的同一性を取り入れたのではなかったということである。そう、ここに勘違いがあるのである。西洋においては、ルネサンスに基づいた近代文化があるのであり、それは、個=差異の文化なのである。それから、自我、近代的自我へと進展したのである。だから、西洋近代文化は、ルネサンスプロテスタンティズムの混淆であると言えるのである。しかしながら、近代日本は欧化において、ルネサンスを忘却して、プロテスタンティズムの近代的自我を取り入れただけのように思えるのである。
 明治維新まで日本文化がもっていた差異共振性を否定して、近代的自我、近代合理主義を取り入れたと思うのである。思うに、日本の近代化とは、中国の文化大革命に並ぶような叡知の放棄・破棄を意味するのではないだろうか。
 日本は自己喪失・自己忘却・自己棄却して、近代化したのである。それもいびつな近代化であった。ルネサンス抜きに近代化であった。あるいは、皮相・浅薄・軽薄な近代化であったのである(そう、日本軽薄近代化と呼べるだろう)。つまり、自己本質を喪失した浮ついた近代化であったのである。これが、現代日本の亡国状況の根因であると考えられるのである。自己の魂を喪失した近代化であったのである。漱石は滅びると考えたのであるが、それは正鵠を射ていたと言えよう。
 三島由紀夫が魂のことを言ったが、この点で正しかったのである。戦後の問題というよりは、日本近代化の問題であったのである。だから、亡国日本から復活するには、日本の魂を復興させなくてはならないのである。差異共振文化を復活させなくてはならないのである。プラトニック・シナジー理論は日本伝統文化の創造的復活をも意味するのである。近代を、とりわけ、日本近代を乗り越えなくてはならない。トランス・モダン・ジャパンである。

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アメリカはいかにして日本を滅ぽしたか」  マクロ経済
アメリカはいかにして日本を滅ぽしたか
ビル.トッテン著”日本は日本のやりかたで行け”から、マィヶル・ハドソン氏の{1985年プラザ合意の教訓とその影響}と題する諭支の要約です。

 プラザ合意の真の目的とは……

1985年9月22日、ニューョ−クのプラザ・ホテルで、日本は金利を引き下げることにより、ドルの為替相場を支えることに同意した.いわゅる「プラザ合意」である。これは世界経済安定のために、先進諸国が協調して相場に介入した事例として語られているが、ハドソン氏によれぱ、それは表向きのことにすぎないという。
http://sun.ap.teacup.com/souun/130.html

「日本はなぜ負債大国になったか」  マクロ経済
平和時に政府が借金を増やす理由は、富に対する課税を怠ったことに起因する。

現在の財政政策の悲劇は、生産的な産業投資よりも、非生産的で寄生的な富の方が簡単に税金逃れができる点にある。

過剰の富や、不労所得者の所得へ課税する代わりに、必需品や生産的な直接投資、労働者階級への課税を増加すれば、産業の発展や繁栄は抑制されてしまう。

税制の改正は、金融および不動産投資家に、寄生的かつ投機的な収益を求めることを奨励する。
この新しい財政哲学は、世界競争に向けた生産性や生産高拡大のための再投資に必要な収益を産業界から奪いかねない。

国民はこの「新しい」税制政策がいかに深刻な影響を与えるか理解していない。
http://sun.ap.teacup.com/souun/126.html
晴耕雨読