近代的自我とキリスト教:同一性自我の脱構築と純粋Media Point回帰

近代的自我とキリスト教:同一性自我の脱構築と純粋Media Point回帰=東洋的精神の復活


テーマ:ポスト・ユダヤキリスト教西洋文明


先に、近代的自我と近代合理性との二重性、即ち、前者が主体であり、後者が従の関係にあることを述べた。例えば、ブッシュが馬鹿の一つ覚えのように民主化と唱えるが、民主化とは、近代合理性に入るが、ブッシュの近代的自我においてである。つまり、利己主義、自己中心主義においてである。つまり、民主化=近代合理性は近代的自我=利己主義に利用されているのである。出汁にされているとも言える。
 私はこの二重性の発生の構造を明確にしたいと思っている。以前、この問題について述べたが、新たに検討したいのである。ほとんど解明済みの感もあるが、ここでも、PS理論に即して考えよう。
 Media Pointから同一性の志向が発生する。ここで、同一性構造が生まれる。問題は、この同一性構造(言語構造と言ってもいいだろう。チョムスキー生成文法論の深層構造とは、これではないだろうか。)は、Media Pointの差異ないしは差異共振性を否定・排除・隠蔽していることである。(ハイデガーの本来的存在は、やはり、この同一性構造と関係するだろう。)
 この差異を否定する同一性は近代的自我となるのである。近代以前においては、同一性は差異を否定しなかったであろう。信仰があり、それは、差異に通じていたと考えられるからである。
 差異を否定する同一性=自我であるが、これは、優越的同一性である。否定される差異は劣位となる。この優劣の原因は何か。
 それは、Media Pointからの同一性志向、言い換えると、同一性衝動が力の衝動であるからであろう。この力が、差異を打ち負かし、勝利するような感情をもたらすので、優越感情を抱くのではないだろうか。
 攻撃衝動と言ってもいいだろう。しかしながら、この力の衝動とは、不安の裏返しであろう。Media Pointから同一性的志向をもつとき、差異自体は不安の種になるだろう。この不安に目をつぶるように、同一性の攻撃衝動が生まれるのではないだろうか。
 いわば、闇を克服した勝利感が優越感ではないだろうか。しかしながら、劣等感を裏にもっていると言えよう。とまれ、差異を否定する同一性的優越感自我が発生する。本当は、同一性的優越感/劣等感自我である。つまり、表立っては、優越感であるが、内面は劣等感があるのである。
 それから、この近代的自我は、同一性の合理性を帯びるようになるのである。これが、近代合理性である。近代的自我と結びついた近代合理性が、近代合理主義である。
 近代的自我は、近代合理性を武器にして、利己主義を肯定するようになるのである。これが、西欧近代主義であり、帰結がアメリカの合理主義である。
 ここで、プロテスタンティズムの問題を考えなくてはならない。これまで述べてきたように、Media Pointから同一性衝動が発生するが、この同一性衝動はMedia Pointの超越性を帯びていたのであり、そのために、この同一性衝動=近代的自我衝動は、宗教性を帯びて、プロテスタンティズムを発生させたと考えられる。ロビンソン・クルーソーである。
 思うに、アメリカ人のプロテスタンティズムはこれで説明できるだろう。Media Pointからの同一性自我衝動なのである。そう、ユダヤ教的衝動と言ってもいいだろう。ユダヤ教アメリカのプロテスタンティズムは同一性自我衝動という点で通じる。
 これがたいへん危険なのは、超越性を否定的に帯びているので、つまり、差異共振的超越性ではなく差異否定的超越性を帯びているので、いわば、絶対的二元論を発現する点である。つまり、絶対的善悪二元論である。すなわち、プロテスタンティズムは、絶対的善悪二元論的同一性自我衝動であるということである。
 これは、端的に、狂信、カルトである。キリスト教原理主義である。
 この狂信的同一性自我衝動は近代合理性を身につけるのである。自我は優越性を帯びていて慢心している。それは、自我に張り付いた近代合理性、近代的自我と癒着した近代合理性を恣意的に武器として利用するのある。だから、民主主義も狂信的近代的自我によって、都合よく利用されてしまうのである。
 ここで、民主主義について考えた方がいいだろう。これは、古代ギリシア的原理と、キリスト教的原理が重なっているだろう。アメリカの独立宣言には、「神がわれわれを平等に造った」と述べられている。
 当然、キリスト教的民主主義である。これは、狂信的近代的自我と結びついているので、狂信的民主主義となる。キリスト教原理主義的民主主義となる。つまり、ここには、カルト的民主主義があると言える。これが、ブッシュの唱える民主化の本質である。狂気の民主化である。
 以上で、近代的自我とキリスト教の結びつきを試論的に考察した。やはり、判明したことは、キリスト教というよりは、ユダヤ教ないしは一神教が問題である。何故なら、同一性自我衝動は、キリスト教的というより、ユダヤ教一神教的であるからである。ベースは、ユダヤ教一神教性である。
 そう、ヤハウェは、「我在りて、在り余れる神である」。正に、自我の神なのである。
 以上から、同一性自我衝動を脱構築する必要があるのである。否定された差異は回帰するのであるが、それは、ポスト・モダンという欠陥のある理論で現われたのである。差異を純粋に、また、意識的に復活させないといけないのである。トランス近代的自我である。
 結局、近代的自我は、Media Pointの同一性衝動/同一性構造から発しているので、これを解体しないといけないのである。差異から同一性へと転換する構造を脱構築しないといけないである。
 それは、Media Pointの純粋化である。Media Pointの、いわば、現象学的還元が必要なのである。純粋Media Pointの復活である。そして、これこそ、本来的な東洋的精神である。