メディア同一面構造とMedia Pointにおける次元変換について

メディア同一面構造とMedia Pointにおける次元変換について


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


注:以下は、次の検討問題から転載したものである。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10053257120.html


 Media Pointに差し込む超越光を閉ざしているのが、メディア同一面の闇ないしはメディア同一面の壁である。ここが、人間の認識を阻害・疎外しているのである。簡単に言えば、同一性の壁である。不安・恐怖の壁である。Media Pointへ進むのを邪魔している壁である。
 これはいったい何なのか。ポスト・モダンが突き当たった壁でもある。構造の壁とも言える。あるいは、超越論の壁である。西欧の知の壁でもある。自我(近代的自我)の壁である。I, ich, je等の壁である。
 Media Pointの超越光が遮蔽されて、闇と光のメディア同一面を造るのである。ここで、プラトンの有名な洞窟の比喩を想起するといいだろう。洞窟外の善の太陽が、Media Pointの超越光に当たるだろう。そして、闇が洞窟内の物体であり、光が洞窟壁の映像であろう。
 洞窟内においては、既に、同一性が形成されているのである。構造が形成されているのである。そして、欧米文化は、この構造から脱却できないのである。
 ポスト・モダン哲学は、この構造からの脱却の試みであったが、不首尾に終った。端的に、この同一性の壁とは何であるのか。Media Pointとの関係は実際どういうものなのか。このMedia Pointと同一性ないしは構造との関係こそ、枢要なポイントの一つである。
 それは、言い換えると、虚軸のMedia Pointが実軸のMedia Pointに変換する事象である。図式化しよう。


差異1*差異2⇒差異1・同一性・差異2


この⇒がMedia Pointに相当する。右辺の同一性が、構造とも言えるだろう。これが、差異を連続化するものでもあるのである。即ち、連続的差異=微分を形成するものである。
 問題はこの同一性がどこから生まれたのかである。それは、差異1の原形相から生まれたと言えよう。言い換えると、差異1が差異2に自己投影して、同一性が発生したのである。(逆に、差異2から差異1に自己投影したものも、一種同一性であるが、それは、神秘主義的闇の同一性であろう。近代合理主義と神秘主義は補完関係にある。)
 この自己投影であるが、これは、虚軸Media Point、即ち、0i ないしは±0iにおいて、つまり、+i→0i←(-i)【又は、+i→(±-i)←(-i)】において、超越性が虚数的ゼロへと極限化するのであり、このとき、1/4回転が発生して、虚数的ゼロが、実数的ゼロへと転換すると考えられるのである。つまり、±0i→±0というMedia Point変換(Media Point Transformation、あるいは簡単にメディア変換)があると考えられよう。
 このメディア変換とは次元変換と考えられる。虚数次元から実数次元へと変換されるのである。虚数次元の±0iが、実数次元の±0へと変換するのである。ここで留意すべきは、メディア変換(又は、虚実変換、虚実次元変換)とは、一つの展開・発展の様態を意味するということである。即ち、虚数±0iの実数的展開・発展として実数±0があるということである。否、まだ、言い足りていない。
 つまり、展開・発展があっても、虚数±0iは基礎として存していると言うことである。言い換えると、虚数±0iは、実数±0を包摂しているということである。しかしながら、両者の間には、次元の差異があるのである。換言すると、不連続であるということなのである。それは、即非と言ってもいいのであるが、この場合、次元の差異を含めた即非である。
 ここで、高次元論を考えるといい。虚数±0iは高次元であり、実数±0はそれより低次元である。後者を三次元とすれば、前者は四次元である。あるいは、後者を時空四次元とすれば、前者は五次元である。
 とまれ、本題にもどると、このメディア変換(メディア次元変換、以下使用する)において、実数±0が発生するが、それが、構造であろう。あるいは、同一性である。
 問題は、実数±0=構造=同一性の様態である。つまり、これは、メディア変換した、言わば、直後の姿である。しかしながら、この実数±0=構造=同一性(以下、実数=構造=同一性)にとっては、それ自体が不可解なのである。いわば、突然、現象したように見えるのである。これは、物質や宇宙の発生の問題である。どうして物質や宇宙が存在するようになったのか。現象次元(実数次元)では、不思議なものに見えるのである。そう、何故、私が存在するのか、という問題にもなる。
 ここで、ニヒリズムの問題を考えると、現象次元に限定されると、実数=構造=同一性が根源である。これが、認識の壁である。そう、±0であり、空無となる。これがニヒリズムを生む。ハイデガーの本来的存在、三島由紀夫の無はこれを指すだろう。そして、D.H.ロレンスの闇も、ほぼこれであろう。(しかしながら、ロレンスの場合は、微妙であり、彼の闇は、超越光を内包していた意味合いがあると思えるのである。彼の説く黒い太陽dark sunは、そのようなものだと考えられる。思うに、dark Godもそうだろう。つまり、ロレンスの場合は、Media Pointが直感されていた感じがあるのである。ロレンスの説くコスモスとは、Media Pointの宇宙であろう。この点は別稿で論じたい。ついでながら言うと、ブラックホールとは、ロレンスの闇と近いのではないだろうか。)
 同一性の問題は解明できたが、では、虚数±0iはどうなるのだろうか。ここには、同一性が発生しないのか。否、これが、即非的に、実数±0=同一性になるということなのである。つまり、虚数±0iは、即非的に、同一性である。
 しかし、虚数±0i自体とは何かという問題が残る。思うに、これが、仏教の空ではないだろうか。色即是空、空即是色の空がそれではないだろうか。虚数的空である。言葉合わせで言えば、虚空である。これは、無とは異なる。無は、実数±0である。
 終りに考えたいのは、構造と無限の問題である。思うに、実数±0=構造において、無限が発生しているのではないだろうか。私が想起している無限とは、連続的無限である。言い換えると、同一性と融合した差異のことなのである。これは、上図式で説明がつくだろう。


差異1*差異2⇒差異1・同一性・差異2


この右辺において、差異は同一性と融合する。問題は、この右辺の差異の意味である。これはいったいどのような様相なのであろうか。結局、これは、ドゥルーズ哲学の意味の問題である。先に私はドゥルーズ哲学には、超越性はないと言った。しかしながら、連続化されても、差異は差異である。今の直感では、右辺の同一性は、右辺の差異の影響を受けて、無限様態となるのではないだろうか。つまり、差異は本来、超越性であるが、この超越性が同一性と融合して、無限様態を呈するのではないだろうか。そして、この無限様態が、ドゥルーズ哲学の内在平面ないしは存立平面の様態のように思えるのである。
 これは、どういうことなのか。それは、メディア次元変換ではなくて、メディア次元混淆とでもいうべきものではないだろうか。Media Pointにおける同一性=連続性化によって、いわば、虚軸と実軸が融合してしまうような事態である。
 一種のカテゴリー・エラーであるが、超越性が同一性と融合して、連続的無限のような様態になるのである。そう、無限とは何か、と言う問題もある。思うに、超越性が、同一性と連続化したために、無限様態になるように思える。実数=同一性=連続性の次元(現象次元ないしは物質次元)では、超越性が捉えられないので、それが無限様態になるのではないのか。一応、そう作業仮説しよう。
 ということで、メディア次元変換(Media Point次元変換)において、超越性が無限性に転換されるということになる。そして、メディア同一面であるが、それは、無限様態をもつと言えよう。正に、ドゥルーズの内在平面である。
 結局、メディア次元変換(Media Point次元変換)によって、メディア同一性無限平面が形成されるのである。これは、正に、仮象である。いわば、マーヤーである。量子力学の長距離相関の説は正に、この仮象の平面の説であろう。より適切な造語は、メディア同一性仮象平面である。後で整理したい。