同一性と差異の関係:自我と自己の連続化、不連続化、超越的共振化(

同一性と差異の関係:自我と自己の連続化、不連続化、超越的共振化(虚軸化)


テーマ:差異と同一性


Media Pointにおける虚軸から実軸への変換について、新たに検討したい。
 虚軸から反時計回りに1/4回転したとき、虚軸のプラス、即ち、+iは、(+i)*(+i)⇒-1となり、虚軸のマイナス、即ち、-iは、(-i)*(+i)⇒+1となるのではないだろうか。
 前者を自我の形成、後者を自己(ないしは身体)の形成と考えられるのではないだろうか。そして、両者は併存しているのだろう。これまで、既述したように、自我-1は、自己+1を認識できない。いわば、自己+1は無意識である。意識である自我-1と無意識である自己+1が平行・併存しているということになろう。
 近代的自我とは、自我-1の徹底したもの、終極態(エンテレケイア)と考えられるが、問題は、それは、まったく、無意識の自己+1にブラインドであることである。つまり、有り体に言えば、自我と自己が分裂して、いわば、二重人格になっていることである。
 このブラインド(自己盲目)とは、自我-1が自己+1を否定していることに因るのである。これは、Media Pointを連続的同一性化が、言わば、覆っていることに因るとも言えよう。つまり、実軸の-1の領域においてのみ思考していることに因ると言えよう。換言すると、自我-1は、正に、同一性、連続的同一性であるために、Media Pointを認知できないということだろう。
 ここからは、思考実験であるが、反時計回りに1/4回転して、自我/自己が形成されるが、両者は平行したままである。しかし、さらに、反時計回りに1/4回転した場合を考えると、(-1)*(+i)⇒-i と、
(+1)*(+i)⇒+i が生起するのではないだろうか。それは、言わば、イデア界の倒立像である。しかしながら、自我-1が、-iとなるというのは、いわば、他者になるということではないだろうか。そして、自己+1が、+iになるのは、主体になるということでないだろうか。
 言い換えると、主体+iが客体-iとなり、客体-iが主体+iになるということではないだろうか。(主体、客体という言葉の使用は、暫定的である。)ここでは、いわば、差異体験が為されているということではないだろうか。そして、さらに、つまり、第三の反時計回りの1/4回転を考えると、(-i)*(+ i)⇒+1 (+i)*(+i)⇒-1 となるだろう。これで、主体は自己+1となり、そして、客体は自我-1となったということではないだろうか。これが、真の自己形成ではないだろうか。(この思考実験はここで留める。)

 次に、最初の反時計回りの1/4回転を固定して、さらに検討したい。ここにおいて、±1の意識/無意識の併存があるが、しかしながら、実際のところ、 (-1)・(+1)⇒-1、即ち、連続的同一性=自我に留まるのではないだろうか。この積は、構造主義を意味するのではないだろうか。自我-1は、自己+ 1を見いだしたとする。しかしながら、実軸のゼロ点を介して(つまり、Media Pointを介さずに)、自己+1を見いだしているので、(-1)×(+1)⇒-1になるのではないだろうか。そして、また、これが、ポスト・モダンの様態ではないだろうか。ドゥルーズの内在平面というものは、正に、この⇒-1ではないだろうか。
 つまり、実軸のゼロ点を見いだすが、それは、連続的なので、結局、自己+1が、自我-1に吸収されるように思えるのである。
 そう、より正確に言えば、構造主義は、実軸ゼロ点の発見、そして、ポスト・モダンはそれを介しての、自己+1の発見と言えよう。つまり、連続的自己の発見である。
 私の経験から言うと、実軸ゼロ点において、自己+1に留まるときに、つまり、自我-1と自己+1の平衡をとるとき、実軸ゼロ点は、虚軸ゼロ点に変容しうるのである。瞑想や禅は、この実軸ゼロ点から虚軸ゼロ点への変容、即ち、Media Pointの形成を志向していると言えるように考えられる。
 不連続的差異論は、Media Pointが不連続であることを発見したのである。これは、これで、大発見であると考えられる。ポスト・モダン理論を乗り越えることができたのであるから。そして、瞑想や禅の意味の一端を明晰にできたのであるから。
 そして、プラトニック・シナジー理論によって、Media Pointにおける虚軸の差異の即非共振様相を明確にできたのである。言い換えると、瞑想や禅の様相を明晰にできたと考えられるのである。これは、東洋哲学の創造的進展と考えられるし、東洋哲学と西洋哲学の融合・統一とも考えられるのである。もっとも、Kaisetsu氏の数学化によって、科学的合理化も可能になったのであるから、哲学と科学との融合・統一でもあるのである。
 とまれ、ポスト・モダン哲学とは、確かに、構造主義を乗り越えてはいるだろうが、しかしながら、連続性に束縛されていたのである。そう、身体的無意識+ 1を発見したが、それが、自我意識と連続化しているので、-1に帰結したのである。デリダ脱構築理論は、+1と-1との差延を発見したが、それの混淆(連続性)によって、+1を真に独立されることはできなかったと言えるのではないだろうか。言い換えると、初期デリダは、+1と-1との揺らぎの差延空間を説いたと考えられる。そして、この差延空間とは、ドゥルーズの内在平面と等価であると考えられるのである。ただ、違いは、デリダが揺らぎを強調したのに対して、ドゥルーズは連続性を強調した点にあろう。
 結局、連続性・同一性・近代的自我・近代合理主義=-1の強固な縛りに意識は支配されてきた(一種のマインド・コントロール)ので、Media Pointと超越的差異、超越的双極差異を発見できなかったと言えよう。言い換えると、西洋的自我が、強固に、支配的であったということである。フッサールは、それを乗り越えようとして、ほぼ、Media Pointを発見していた。しかしながら、それを同一性の視点で捉えてしまったのである。
 西洋哲学の不幸・限界は、東洋哲学が内包していたMedia Pointの発想をもっていなかったことにあるだろう。同一性中心主義(ロゴス中心主義)であるために、東洋哲学では基本的なMedia Pointの発想が欠落していたのであり、同一性中心主義を解体しようとしたポスト・モダン哲学も、それから脱却できなかったのである。(プラトン哲学は、西洋哲学の元祖でありながら、本質は東洋哲学であると考えられるのである。簡単に言えば、ディオニュソス、Media Pointの哲学であるということである。)
 そう、また、近代・現代日本の不幸は、自己の東洋的伝統を、欧米化によって、喪失したことである。西洋的近代的自我の発想に陥り、本来の東洋的日本的思想を否定してしまったのである。これは、とりわけ、敗戦後の占領政策、そして、洗脳された自民党、マスメディア、教育体制、そして知識人・文化人等に拠ると言える。
 今や、日本の危急存亡の時である。プラトニック・シナジー理論は、救国思想である。目覚めの理論である。宗主国米国からの独立の理論である。