三相共振経済:脱資本主義としての差異共振主義経済:試行錯誤

三相共振経済:脱資本主義としての差異共振主義経済:試行錯誤


テーマ:メディア・ポイントMedia Point

  1. iは形相・光、-iは質料・闇と作業仮説しよう。+i主導は同一性知性を生む。そして、-i主導は神秘主義を生む。(思うに、これまで、+iと-iを前提にMedia Pointを発生的に考えたが、逆に、最初に、Media Pointがあって、それから、±iの対が発生すると考えることもできるのではないだろうか。というか、三者が同時存在したと考えられるのではないか。三柱の神々。)

 とまれ、+i主導は形相の光を生む。そして、-i主導は質料の闇を生む。神秘主義は、後者の方向であるが、問題は単純ではない。近代においては、-i主導というのは、実は、先に述べたように、Media Pointが内包されていると考えられるのである。三島由紀夫神秘主義は、Media Pointが内包されていると考えられるのである。彼の無は無だけではないのである。これは、D.H.ロレンスシャガール他にもあてはまると考えられる。そう、垂直性、超越性が参入しているのである。
 ここで、再び、一体性を問題にしたい。反動としての-i主導は、確かに、同一性ないしは連続性を帯びている。だから、そのとき、一体性と言ったとき、身体・質料の同一性・連続性は入っているのであり、差異としての形相が喪失されているのである。シャガールの絵画における個別的像の輪郭のぼやけや、像の簡略化にそれが見られるだろう。それは、光の喪失であり、闇の侵入である。
 しかしながら、この反動的様態において、Media Pointが内包され、エネルゲイア化しているのである。同一性と差異が共振するのである。シャガールの絵画(たとえば、『おとずれ』:私はすばらしいと思ったが、絵はがき等はなかった。俗受けする絵のものが売られていた。))で、離れた者が、共振するのである。問題は、この共振性を一体性と呼ぶときのことである。反動的一体性があり、共振的一体性があるのではないのか。
 問題は、シャガールの絵画に感じる共振性の意味である。それは即非様態である。女性がベッドに横たわり、そこへ、花束をもった男性が宙に浮かんでやってくる。その女性と男性の間には共振性があるのであり、中間の色彩の多彩なグラデーションがその共振性の媒体となっている。
 思うに、一体性と呼ばない方がいいように思える。差異共振性である。それが適切であると思う。一体性と差異共振性は区別すべきである。
 一体性は、経済の場合、社会主義になるだろうし、政治では、全体主義になるだろう。
 そう、作家の場合、たとえば、宮沢賢治の場合も、銀河との一体性のようなものがあるだろうが、しかしながら、彼の場合も、差異共振性を見る必要があるのである。近代における良質な神秘主義は、そう考えるべきである。つまり、質料・身体的一体性という反動様態があるが、その中に、差異共振性が内包されているのである。いわば、悪魔の中に天使が存しているのである。
 ということで、一体性と差異共振性を区別できたことから、三相共振経済について考察しよう。
 先に、差異における社会主義を提示したのは、否定されなくてはならない。それは訂正である。社会主義は、反動である。
 やはり、差異、他者に対しては、差異共振化する経済でなくてはならないのである。思うに、たとえば、生産者と消費者との差異共振性があるということではないだろうか。偽装食品では、それはありえない。
 それも一面であるが、私は公共性を問題にしたいのである。公共性も差異共振的でなくてはならないだろう。民主主義的な平等ではなく、差異共振的公共性である。平等に道路やダムや建物を造っても負債漬けである。それは、同一性の発想に拠るのである。
 たとえば、ある農村で必要な差異共振的事業は何かと考えるべきであろう。農業を復興させるためには、村と農家との差異共振性がなくてはならないだろう。そのために、銀行やその他は、資金を提供すべきである。つまり、金融機関も差異共振的金融機関になる必要があるのである。
 資本は差異共振性を物質的に支える手段となるだろう。資本は差異共振性が主であるのに対して、従となるだろう。差異共振価値が主だえり、資本が従である。差異共振主資本従である。差異共振を略して、差共とすれば、差共主資本従である。 
 簡単であるが、この差異共振主義経済が、三相共振経済でないだろうか。つまり、同一性としての差異と他者としての差異が共振する経済であり、このとき、資本は、差異共振価値の金融的手段となるのである。とまれ、三相共振経済=差異共振経済=三相差異共振経済である。