構造主義について:垂直性と水平性の混同する構造主義とサブ構造主義

構造主義について:垂直性と水平性の混同する構造主義とサブ構造主義としてのポスト・モダン:トランス・ポスト・モダン=トランス・モダン=トランス・オクシデント


(+i)*(-i)を根源的対立とすると、構造主義、とりわけ、神話学的構造主義は、この対立がMedia Pointにおいて、連続=同一性化したときの様態を捉えたもののように思える。即ち、(+i)*(-i)⇒±1の⇒±1を形式化したものではないかと思えるのである。たとえば、「天」と「地」との対立があるとしよう。これを、構造主義は、二項対立(二元論)として、⇒-1の側面を形式化する。そして、同時に、即非対立の側面⇒+1であるが、これを構造主義は中間項として提起すると思われるのである。山口昌男で言えば両義性である。つまり、構造主義は、Media Pointにおける連続=同一性化プロセスにおける顕在且つ潜在的両面を形式化しているということである。顕在的側面とは⇒-1であり、潜在的側面とは⇒+1である。
 問題は、潜在的側面・中間項を、顕在的側面・二項対立と同じ次元・レベルで扱っていることである。つまり、本来、垂直・虚数的事象であることを、水平・実数的事象として扱っているのである。一種のカテゴリー・エラーがあると言えよう。つまり、端的に言えば、混乱・混同・混濁・混線があるのである。垂直性と水平性の混乱・混同があるのである。これは、結局、ポスト・モダンの混乱、袋小路に引き継がれたのである。思うに、構造主義よりも、ポスト・モダンは理論的には、悪化した面があるのである。なぜなら、神話学的構造主義を考えると、そこには、混乱しつつも、垂直性が作用しているが、ポスト・モダンにおいては、垂直性が否定されているからである。デリダは、フッサール批判において、フッサールの垂直性(超越論性)を否定・排除しているし、ドゥルーズ(&ガタリ)は、フッサール現象学の超越性を否定しているのである。ここにおいて、ハイデガー哲学について言及しておくのが適切である。ハイデガー哲学こそ、フッサール現象学の超越性を否定した似非現象学なのである。ポスト・モダン哲学の元祖はハイデガー哲学である。(また、さらに言えば、ヘーゲルこそ、ポスト・モダンの大元祖であると考えられる。なぜなら、構造主義論理は、弁証法論理と一致すると考えられるからである。)
 もう少し、ポスト・モダン哲学について述べると、これは、神話学的構造主義のもっていた垂直性を否定して水平性へと還元させた理論と考えられる。プラトニック・シナジー理論で言えば、実数軸の理論であり、Media Pointが実数軸の原点に還元されているのである。だから、この点から言うと、ポスト・モダンとは、サブ構造主義(亜・従位構造主義)sub-structuralismである。だから、ポスト構造主義とは、誤った命名である。
 ここで、視点を広くすると、芸術におけるモダニズム構造主義に相当するだろう。そこでは、垂直性と水平性が混乱しているのである。そして、モダニズム主流においては、水平性・同一性が優位となり、垂直性を否定したのである。それに対して、モダニズム傍流においては、垂直性が優位となったのである。D.H.ロレンス文学はそのようなものであるし、宮沢賢治文学もそうである。ポスト・モダンとは、サブ構造主義なのである。「デカダンス」である。今日の文化的混乱・行き詰まり・閉塞はここに根差すと言えよう。トランス・ポスト・モダンが必要なのである。それは、同時に、トランス構造主義であるし、端的に、トランス・モダンである。