古事記と易との関係:プラトニック・シナジー理論と古事記/易

古事記と易との関係:プラトニック・シナジー理論古事記/易


テーマ:神話学・不思議学・フォークロアケルト


古事記の暗号―神話が語る科学の夜明け (文庫)
藤村 由加 (著)
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ブックオフでちらと見たら、古事記と易との関係が述べられていた。天之御中主神は、太極であるということで、なるほどと思ったが、どうしてこれまで気がつかなかったのかと思った。たかみむすひのかみ、と、かみむすひのかみ、が陰陽となるのである。そう、三つ巴と陰陽太極は同じであるということになる。後で読みたい。
 以下、引用する。


「 天之御中主[あめのみなかぬし]、御をとると天之中になるが、「天中」という漢語があり、天の中央、空の中心、大空の意がある。古事記高天原(たかまがはら)の中心というより、もっと宇宙的な意味で中心の神だというのだ。易ではそれは万物のすべての大もと、太極にあたる。
 そこから生まれるのが陽と陰の神々である。つまり、高御産巣日神[たかみむすひのかみ]は陽、神産巣日神(かみむすひのかみ)が陰ということだ。最初に、太極、陽、陰と万物を構築していくのになくてはならぬ神々が出現したのである。」p.42


そうすると、先にも少し述べたが、+iが高御産巣日神で、-iが神産巣日神であり、(+i)*(-i)=Media Pointが天之御中主神である。そして、⇒+1が造化である。そうすると、プラトニック・シナジー理論は、古事記の神話叡知をも科学化したことになる。
 とまれ、問題は、ユダヤキリスト教ないしは聖書において、この三神共振性が失われていることである。つまり、既述したように、+iだけが創造神(ヤハウェ、エホバ)になっていて、-iや(+i)*(-i)を欠いているように見えることである。
 創世記の神霊は+iであり、水が-iである。そして、「光あれ」が⇒+1である。だから、やはり、(+i)*(-i)=Media Pointが欠落しているように思われるのである。強いて言えば、無からの創造ということで、無がそれに当たるだろう。
 聖母マリアが-iかもしれない。そして、聖霊が(+i)*(-i)=Media Pointかもしれない。後で検討したい。


p.s. ふと考えたのであるが、+iは、一神教の神であり、-iは多神教の神ではないかと思ったのである。換言すると、+iが一(いつ)であり、-iが多である。何度も既述したように、旧約聖書は不思議なもので、神の名が、実は、二つあって、一つは周知のヤハウェ(エホバ)であり、一つはエローヒーム(神の複数)である。思うに、前者が+iであり、後者が-iではなかったか。そうならば、つじつまがあうのである。そして、ユダヤキリスト教は、聖書の後者を無視していって、一神教神学を形成したのではないだろうか。つまり、聖書とユダヤキリスト教は不連続であるということである。(また、先にも述べたが、創世記は奇妙な箇所があって、天の上の水と天の下の水があるのである。そして、前者が無視されていくのである。)
 とまれ、創世記の神霊がヤハウェとして、水がエローヒームとなるのではないだろうか。そして、この共振によって、光が発生して、天地創造となることになるのである。(もっとも、この光は超越光でもあるだろう。超越光⇒光である。)
 また、この考えから、ギリシア神話の説明もつくだろう。つまり、(+i)*(-i)は、一神*多神であり、ゼウス(主神)とオリンポスの神々の一神/多神の関係の説明がつくのである。
 では、アポロとディオニュソスはどう説明できるだろうか。おそらく、ディオニュソス⇒アポロである。つまり、超越光⇒光の関係ではないかと思うのである。つまり、ディオニュソスとは、Media Pointである。
 では、さらに展開して、プラトンの善のイデアやその他のイデアとは何か。これは微妙な問題だと思う。つまり、超越的差異がイデアであるが、それは、結局、Media Pointへと展開する。つまり、エネルゲイア化するのである。そう、以前述べたように、超越的差異をデュナミス、そして、Media Pointをエネルゲイアと考えることができるだろう。
 端的にイデアは、どちらなのか。否、両方ではないのか。デュナミス/エネルゲイアとしてのイデアではないのか。そして、後世、イデアの現象する際の連続的同一性を側面を捉えて、同一性の観念として捉えられてきたのである。例えば、花のイデア、馬のイデア、机のイデア等々である。おそらく、プラトン自身、不明確であったようにも思えるのである。本当は、Media Pointとしてのイデアを説くべきであるが、プラトンは、その連続/同一性の面をイデアとして説いている面があるのである。例えば、『国家』におけるイデアの模倣の模倣としての芸術論において見られるように。
 とまれ、今はここで留めたい。