検討問題:Media Pointと太極、叡智・智慧の聖火、etc.

検討問題:Media Pointと太極、叡智・智慧の聖火、etc.


テーマ:検討問題


1)Media Pointと太極ないし易について比較検討:


2)神話と科学の関係について


3)叡知の永遠の聖火を灯すこと:叡知学の必要:プラトニック・シナジー理論は、叡知学の数理的発展・創造である。(p.s. 叡知・智慧こそ、平和の叡知・智慧である。同一性主義が戦争を肯定する発想である。)
 一言いうと、古代的叡知があった。それは、秘教・密教であった。秘儀・密儀によって伝承された。しかしながら、秘儀・密儀の伝統が衰退する。哲学・宗教・神話・思想において、叡知が伝承される形になる。プラトン哲学、仏教、ギリシア神話、等。しかしながら、問題は、聖書やキリスト教である。あるいは、一神教である。
 叡知(ソフィア)・智慧の伝統が、これによって、歪曲されたのである。キリスト教は異教的要素を取り込んで、一神教王国に組み入れたのである。端的に、叡知・智慧が同一性化されたのである(デリダのロゴス中心主義)。
 簡約簡略して言えば、叡知・智慧は、本来なんらか太極的でなのである。それが、崩されて同一性化されたのである。近代合理主義(近代科学・技術)は、この同一性化への帰結なのである。現代は、この同一性化によって、狂気化しているのであるが。
 とまれ、言いたいのは、同一性化によって、叡知・智慧が破壊されたということである。人類の普遍共通の叡知・智慧が破壊されて、人類の知が傾斜し、狂ったのである。
 シュタイナーは、西欧近代を唯物論文化と捉えていて、物質文化を生みだす必然性があり、その後、それを超克する霊的文化が発展する考えていた。それは、大枠では、肯定できる考えである。同一性への傾斜は必然性があったのだろう。それによって、物質主義文化が発展したのである。科学・技術文化である。それは、それで、それなりに恩恵を与えたし、また、その否定的な面での被害も大きいが。
 とにかく、同一性中心主義(ロゴス中心主義)によって、物質的合理性を形成することはできた。しかし、心の差異が喪失されたのである。心の闇が生まれたのである。
 何故、同一性化が生じたのかついては、さんざん論述したが、今の感じでは、対極性(太極)に拠ると考えたい。同一性を陽、差異を陰として考えればいいと思われるのである。
 プラトニック・シナジー理論で言えば、+iが陽であり、-iが陰であり、太極がMedia Pointで、(+i)*(-i)である。そして、⇒+1とは現象である。思うに、陽に傾斜したときは、(+i)→(-i)⇒-1になるのではないだろうか。つまり、傾斜とは、否定のことである。i・〔-(-i)〕である。ないしは、自乗である。(+i)^2である。そして、同一性主義の-1とは、現象の +1と対応しているということになるだろう。つまり、現象の+1を主観性の-1で見るということだろう。言い換えると、⇒+1を単に+1と見ることではないだろうか。差異共振⇒同一性という変換において、単に右辺しか見ないというのが、-1の同一性中心主義ではないだろうか。そして、⇒+1と見て、左辺を、不明確ではあっても、直感しているのが、差異を肯定した心のあり方ではないだろうか。
 整理すると、-1=同一性中心主義と+1が対応し、差異共振主義と⇒+1が対応する。後で再考したい。
 

p.s. 卑近なことながら、私は台所でガスコンロを使用して、例えば、煮る時間がかかるとき、台所の電灯をつけたままにしておき、居間から確認できるようにしておく。
 思うに、叡知・智慧も、そのように忘却されないように何か目印をつけてあったはずである。聖なるものとして、守護されてきたもはずである。神や仏とはそのようなものではないか。つまり、宗教とは、叡知・智慧を保存するための文化装置であったと思われるのである。
 しかしながら、ユダヤキリスト教という宗教は、叡知・智慧の保存ではなく、破壊するものであったと思う。あるいは、歪曲するものであった。そして、西欧近代において、近代科学が発展して、宗教自体が弱化して、物質的科学・技術をもつ資本主義経済によって、完全に、叡知・智慧は喪失されることになったのである。
 そう、昨日、たまたま書棚に裏返しになっていた本を取りだしたら、『グノーシス 古代キリスト教の〈異端思想〉』講談社選書メチエ(筒井賢治著 )
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E2%80%95%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%81%AE%E2%80%9C%E7%95%B0%E7%AB%AF%E6%80%9D%E6%83%B3%E2%80%9D-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E9%81%B8%E6%9B%B8%E3%83%A1%E3%83%81%E3%82%A8-%E7%AD%92%E4%BA%95-%E8%B3%A2%E6%B2%BB/dp/4062583135/ref=pd_bbs_sr_1?ie=UTF8&s=books&qid=1197728091&sr=8-1
であった。グノーシスとは、霊智である。つまり、叡知である。キリスト教は信仰を強調したが、グノーシスとは、叡知・知恵を強調したと考えれるのである。ここが、人類史のターニング・ポイント、分岐点であったろう。(p.s. 私は、グノーシス文書である『トマスの福音書』のイエスは、叡知・智慧の伝達者であると以前述べた。イエスは、プラトニストであったと思うのである。しかるに、キリスト教会は、イエスの教えを利用して、民衆を支配するために、信仰としてのキリスト教を作ったのではないかと思う。キリスト教会とは、民衆を支配する能力に長けていると思う。遊牧民族の狡知なのだろうか。)
 信仰となったとき、これまでの叡知・智慧は否定されたことになるのである。人間の知では達することのできないものとなったのである。叡知・智慧の没落が生じたと言えよう。非合理主義が勝利したと言えよう。そして、西欧中世においては、トマス・アクィナスの神学にあるように、信仰と理性との調和が説かれたわけである。それは、超自然領域と自然領域の分離と言ってもいいだろう。やはり、二元論である。
 東洋においては、自然における智慧を説いてきたのであり、西欧文化のように、超自然と自然との二元論を形成しなかった。そして、仏教においては、悟りという認識が重要視されたのでる。それは、信仰ではなく、一つの理解の仕方である。とまれ、東洋では、叡知・智慧の伝統は続いたのである。
 そして、近代となり、洋の東西を問わず、科学認識が中心化するようになり、伝統的な叡知・智慧の様式が軽視・否定・無視されるようになったのである。科学と科学的技術の中心化である。物質主義的知の中心化である。完全に叡知・智慧の伝統はマイナーになり、人びとの心からは忘却されていったのである。
 しかしながら、人間の心には、叡知・智慧を求める動きがあるのであり、探求は止まないのである。プラトニック・シナジー理論は、この叡知・智慧の探求の結果の理論とも言えるだろう。消えていた叡知・智慧の聖火を再点火したのである。そう、不死鳥の神話とは、永遠の生命の象徴でもあるし、また、叡知・智慧の象徴でもあるだろう。とまれ、叡知・智慧の聖火を広めないといけない。プラトニック・シナジー理論という新しい叡知・智慧の聖火を普及させたい。


4)3とも関係するが、芸術は本来、叡知に関係するということ


5)近代的知の崩壊と新しいインテリジェンスの創造:モダンの終焉とポスト・モダンのカオス(非線型科学の意味で)とトランス・モダンへの転換:モダン⇒ポスト・モダン⇒トランス・モダン:Out of Postmodern into Transmodern


6)ユダヤキリスト教の終焉と心教の誕生:ユダヤキリスト教は同一性(自我)の宗教であった。東洋的宗教の創造的復興


7)シュタイナーの三層的社会有機体論と差異共振的社会共創体論


8)アメリカ英語の発音の特徴について:イギリス英語の発音の特徴について:
 アメリカ英語を聴くと、よく言われるように、語尾が消えて、次の単語の発音へと連なって発音される。私見では、これが、日本人の耳に馴染みにくい発音様態ではないかと思われるのである。
 私の感じでは、この語尾を消失させる発音方法とは、なにか品がないのである。しかしながら、強弱アクセント(ストレス・アクセント)の英語では、そのようになる力学の傾斜はあるのである。弱のアクセントは、小から無へと向かうのである。
 思うに、この、言わば、性急な発音方法とは、アメリカのビジネス社会と関係するのではないだろうか。急ぐことである。ひたすら、先へ先へと、慌ただしく進むことである。
 私の経験では、忙しい、ということは、漢字の通り、「心を亡くす」ことなのである。余裕をなくすことなのである。そのようなことを考えて、アメリカ英語の発音を見ると、心をビジネスへと駆り立てているように思えるのである。つまり、「忙しい」のであり、心を亡くしているのである。哲学的に言えば、心の差異をなくして、同一性へと心を駆り立てているのである。端的に、差異のない発音・口語になっているのである。
 この点から見ると、イギリス英語の方が、心の差異があるようであるが、しかし、イギリス英語は、私の印象では、アメリカ英語よりも、ある意味で忙(せわ)しないのである。スタッカート気味に早口で話すのである。
 それは思うに、イギリスにも、心の差異が失われてきたからではないだろうか。