ユダヤ・キリスト教/三位一体教の奸智について:又、マモン崇拝であ

ユダヤキリスト教/三位一体教の奸智について:又、マモン崇拝である邪教としてのユダヤキリスト教


テーマ:ポスト・ユダヤキリスト教西洋文明


戦後日本人は、アメリカ近代合理主義に洗脳されているので、自分の民族・文化の宗教・神話が奪われていることも感じないし、また、宗教・神話に無理解になっている。度し難い感がある。
 ところで、クリスマスが近づいたので、クリスマスのことを考え、また、キリスト教の狡知についてあらためて考えてみると、ユダヤキリスト教の奸智・狡知の多さに気がついた。それは、宗教的詐欺に近いのである。邪教と呼ぶのは少し違うと思う。詐欺教の方が真相に近いだろう。では、以下、奸智・狡知をあげてみよう。

1)クリスマスは、イエスの誕生日の祝祭になっているが、これはフィクションであり、本来のイエスの誕生日は、春か初夏と考えられている。これは、冬至の祭礼を横取りして、クリスマス(キリストのミサ)に変えたのである。太陽崇拝や祖先崇拝が元の祭礼の基礎である。

2)カトリック教会における聖母マリア崇拝であるが、それは、本来、地中海の女神宗教を横取りして、取り入れたものである。イシス・オシリスの宗教・神話が基盤である。聖母子像は、イシス・オシリスが原型である。

3)聖霊であるが、これは、Media Pointにおける超越エネルギーのことを表現していると考えられるのであり、これは、普遍的な現象であり、ユダヤキリスト教が独占できるものではないのである。

4)天使であるが、それは、多神教の神々に通じるものだろう。あるいは、大乗仏教の菩薩や如来に通じるだろう。あるいは、神話に通じるものだろう。

5)父と子と聖霊の三位一体であるが、父とは、ユダヤ教の神であり、聖書の神ではないだろう。聖書の神はヤハウェとエローヒーム(神の複数形)の二種類である。子は、女神(母)の子であり、父の子ではない。また、聖霊とは、Media Pointの超越エネルギー(超越エネルゲイア)であり、それは、普遍的現象である。だから、これらは三者は別々であり、一体とはならないのである。三位三体が正しく、三位一体はフィクションである。

6)イエスの死と復活であるが、これは、古代の秘儀・密儀を踏襲したものである。永遠の生命とは、普遍的な思想であり、ユダヤキリスト教の独占できる観念ではない。言い換えると、いわば、異教の集約点としてのイエスの宗教があるのであり、いわば、超異教なのである。それをユダヤキリスト教としての異教から区別するのは、誤謬である。異教の縮図としてのイエスの宗教があるのである。大異教としてのイエス宗教である。私は、イエスプラトニストであると考えている。あるいは、東洋的な叡知の伝達者である。参照:『トマスによる福音書』。

7)十字架というシンボルは、普遍的であり、ユダヤキリスト教の独占できるものではない。

ざっと、以上のようなトリックがある。
 結局、いちばんの問題は、三位一体というフィクション・錯誤・虚偽である。多元的なものを、無理やり唯一神において統一しようとしているのである。つまり、唯一神という超越的同一性によって統一化しようとしているのである。しかしながら、聖書には、唯一神は存しないから、ユダヤキリスト教会の創作である。「父」の創作、これが、詐欺の中心点である。太極原理、ないしは、プラトニック・シナジー理論から言えば、父ならば、それと対等の母がいなくてはならないが、それが存しないのは、都合が悪いからである。陰陽が本来的なのである。イザナミイザナギが太極が真正・正統なのである。
 結局、いわば、ユダヤキリスト教会教とは、本来、さまざまな宗教を取り込んで(横取り、いいとこ取りして)、超越的同一性教を創作したと考えられるのである。
 では、超越的同一性教とは何か。これは、超越的同一性としての自我の宗教であり、また、正に、同一性としての交換価値としての貨幣信仰である。マモン神の宗教である。
 プラトニック・シナジー理論から見ると、Media Pointを実軸へと限定する志向性である。つまり、自己認識方程式から言うと、i*(-i)⇒+1をX⇒+1として、Xが不明になっていて、+1である自我から類推して、Xを超越的同一性の神にしているのである。
 超越的同一性の神とは、邪神、悪魔である。つまり、ユダヤキリスト教とは悪魔教なのである。この点では、邪教である。また、超越的同一性とは同一性交換価値としての貨幣でもあるから、貨幣教である。お金の信者・亡者である。そして、この帰結が、資本主義である。マネー・ゲームの資本主義なのである。お金を渇望する宗教なのである。