シュタイナーのキリスト論と太母の子のイエス:ユダヤ・キリスト教の

シュタイナーのキリスト論と太母の子のイエスユダヤキリスト教の死滅と本源的太母子教の新生・復活


テーマ:プラトニック・シナジー理論


『イエスを語る』(シュタイナー・コレクション)
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を拾い読みしたが、私の太母の子(たち)のイエスの思想と比較すると、重要な相違が浮かぶなどして実に興味深い。(私の二人のイエスの仮説は、シュタイナーの本から来ているのである。)今は、簡単に問題点をあげると、それは、《自我》の問題である。

 今、日本語で自我と訳されている原語(ドイツ語)は何かと思って検索したら、なんとichであった。これを自我と訳していたのである! これは、完全に誤訳である。少なくとも、自己ないしは個、あるいは、ポスト・モダン風に差異と訳す必要があるのである。
 日本語に訳されたシュタイナーの文献は、この点で完全な誤りに陥っている。これは、犯罪的な、悪魔的な誤訳である。
 私は日本語の翻訳や英訳を通して、シュタイナーを読んだが、邦訳にある自我に疑問をもってきて、シュタイナーの霊学に疑問をもったものである。(思えば、フロイト精神分析のichも自我と訳しているだろう。これも、誤りだろう。そう、これにも、違和感を覚えていた、確かに。)
 しかし、今、『イエスを語る』を読み、自我が出てきて、どうも疑問に思ったのである。キリストが自我に関係するという点が、おかしいと思ったのである。ichと自我は全く異なる概念である。
 キリストがichに関わるというなら、プラトニック・シナジー理論からも納得できるのである。何故なら、自己認識方程式は、ichの方程式であるからである。そして、ichと他者との即非関係を数理化したものであり、これは、太母の子のイエスを表すと考えられるのであるから。というのは、端的に、太母の子のイエス【異教的キリスト;もっとも、今現在では、太母の子たち、と複数形で考えたい。この複数形はエローヒーム(神の複数)と関係するのではないだろうか。神々である。ここから、ヤハウェがいったい何であるかが示唆されるだろう。この点に関しては、後で考察したい。】は、根元的なich(+i)と他者 (-i)との差異共振様態(+i)*(-i)であると考えられるからである。【ここで述べた「根元的なich(+i)と他者(-i)との差異共振様態(+ i)*(-i)」であるが、これは、ウパニシャッド哲学の梵我一如(ぼんがいちにょ)の梵、すなわち、ブラフマンに当たるだろう。そして、この我は、正に、太母の子に相当するだろう。つまり、ichである。そう考えると、自己認識方程式は、ウパニシャッド哲学の核心をも表わしていることになるだろう。思うに、根元的なichと他者とは、大ichと大他者と表わすこともできよう。巨視的に視ると、ウパニシャッド哲学もヒンドゥー教の同質であり、いわば、太母の哲学と言えよう。そう、太母子の哲学と言ってもいいのではないだろうか。当然、プラトニック・シナジー理論も太母子の哲学理論である。】
 さて、以上のように、シュタイナーの霊学(人知学)におけるichを、自己・個・差異と読み直して、シュタイナーのキリスト論と私の異教的キリスト教説を比較するとどうだろうか。
 シュタイナーはヤハウェをおそらくich原則と説いているはずである。何故なら、日本語訳では、自我原則になっているからである。そして、キリストとは、このich原則を意味して、それが、イエスに「降臨」したことになる。愚説の異教的キリスト教論では、Cosmic Media Pointと共振した太母の子としてのイエスが存するが、それは、当然、ich原則をもっているし、また、当然、差異共振法理を「帯電」しているのである。だから、シュタイナーのキリスト論と愚説の異教的キリスト教論は共通すると言えよう。
 しかしながら、シュタイナーのキリスト論、霊学的キリスト論は、父を肯定していることで、愚説とは異なるのである。問題はシュタイナーがヤハウェを ich原則と考えていることである。私見では、ヤハウェは、ich原則ではなく、自我原則、いわば、ego原則である。ヤハウェは、自我原則だからこそ、異教を暴力的に排除したと考えられるのである。イスラエルの民衆が、偶像崇拝バール神崇拝等、これは、明らかに、異教であり、太母信仰である。)しているのを憎悪したのである。だから、ここで、シュタイナーは根本的な誤謬を犯していると考えられるのである。ヤハウェは自我原則であり、ich原則(自己・個・差異原則)ではないのである。
 ich原則は太母から発するのであり、ヤハウェからは自我原則が発するのである。この混同のために、シュタイナーのキリスト論は、私は批判するユダヤキリスト教的残滓を留めることになったのである。そう、言い換えると、ヤハウェの自我原則とは、同一性原則である。これが、イエス・キリストに侵入しているのである。そして、これが、現代の途轍も無い諸々の災厄の根源なのである。
 ということで、ichの視点から、シュタイナーのキリスト論を批判して、愚説の異教的キリスト教論を説くことになった。思うに、キリストという名称を避けるべきである。異教的太母子教である。また、異教という名称も廃止すべきである。原教、本教、真教、根源教、本源教である。本源的太母子教である。
 

参考:
アントロポゾフィー指導原理 (11)
11.
《私》(自我)として統合される自己意識は、
意識のなかから浮かび上がってくる。
この意識が発生するのは、
物質体とエーテル体の諸力によって、
物質体とエーテル体自身が解体(分解)され、
精神的なものが人間のなかに入り込むときである。
物質体とエーテル体の解体のなかで、
意識生活が展開されるための土台がつくられるのである。
しかし、生体そのものが破壊されないためには、
この物質体とエーテル体の解体の後に、その再構築が続かなければならない。
それゆえ、意識体験のために解体作用が生じたなら、
まさにそこで解体されたものを再び構築しなければならない。
この構築作用を知覚するとき、そこに自己意識が体験される。
人は、内的直観のなかで、この過程を跡づけることができる。
単に意識されたにすぎないものに対して、
自分自身の内から、その模像をつくりだす。
すると、それによって意識が自己意識へ移行するのを感じることができる。
単に意識されたにすぎないものは、
その像を、生体のなかの、
いわば解体作用によって空虚になった部分に持っている。
その空虚さが、内面から再び満たされたとき、
その意識は自己意識のなかへ引き込まれるのである。
この「満たす」能力をもった本性が
《私》(自我)として体験される。(訳・入間カイ)

11.
Das Selbstbewußtsein, das im «Ich» sich zusammenfaßt,
steigt aus dem Bewußtsein auf.
Dieses entsteht, wenn das Geistige in den Menschen dadurch eintritt,
daß die Kräfte des physischen und des ätherischen Leibes diese abbauen.
Im Abbau dieser Leiber wird der Boden geschaffen,
auf dem das Bewußtsein sein Leben entfaltet.
Dem Abbau muß aber, wenn die Organisation nicht zerstört werden soll,
ein Wiederaufbau folgen.
So wird, wenn für ein Erleben des Bewußtseins ein Abbau erfolgt ist,
genau das Abgebaute wieder aufgebaut werden.
In der Wahrnehmung dieses Aufbaues liegt das Erleben des Selbstbewußtseins.
Man kann in innerer Anschauung diesen Vorgang verfolgen.
Man kann empfinden,
wie das Bewußte in das Selbstbewußte dadurch übergeführt wird,
daß man aus sich ein Nachbild des bloß Bewußten schafft.
Das bloß Bewußte hat sein Bild
in dem durch den Abbau gewissermaßen leer gewordenen des Organismus.
Es ist in das Selbstbewußtsein eingezogen,
wenn die Leerheit von innen wieder erfüllt worden ist.
Das Wesenhafte, das zu dieser Erfüllung fähig ist, wird als «Ich» erlebt.
(Rudolf Steiner)
http://blog.goo.ne.jp/iruma-kai/m/200709

入間カイのアントロポゾフィー研究所