「わたし」とは何か:自我という閉鎖⇒自我崩壊⇒高次元自己

「わたし」とは何か:自我という閉鎖⇒自我崩壊⇒高次元自己


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


「わたし」とは、同一性主義によって発生する意識である。そこでは、差異・他者が否定されているのである。簡単に言うと、物質的身体と一致するのが、「わたし」となっているのである。
 ところで、私は、もうかなりの年数が立つが、ワープロで文章を打っていて、これは、なにか自分が書いているというよりは、違う存在が私を使って書いているのではないかと訝しがったものである。比喩的に言えば、自動書記とかお筆先である。
 確かに考えているのは、私であるが、その私は日常の私を越えて、自己を測深して考察しているのである。この自己測深が、どうやら私を越える存在を喚起しているのではないだろうか。確かに私が思考するが、同時に、ある他者が思考しているようなのである。そして、その他者に主導権があって書いているようなのである。
 思うに、この他者は、Media Pointなのである。それへと私は測深して、Media Pointのエネルギーが付与されて思考しているように思うのである。
 それはともかく、通常の「わたし」の話にもどすと、それは、同一性中心主義の意識であり、Media Pointを隠蔽させているのである。そう、Media Pointを恐れているのである。しかしながら、「わたし」の源泉はMedia Pointなのであるから、これを隠蔽したままだと「わたし」は枯渇するのである。つまり、何度も既述したが、こういうことだと思う。
 Media Pointから同一性志向性が発生して、「わたし」の意識が形成される。自我である。そのとき、Media Point自体は、否定・排除・隠蔽される。しかしながら、Media Pointのエネルギーは、同一性から差異へと転換すると思われるのである。
 同一性中心主義のままだと、この差異のエネルギーを受容することができず、返って塞き止めてしまう。この塞き止めが心病(精神病)を生むと思えるのである。また、凶悪犯罪も生み出す根因になると思われるのである。(ここで私見を言うと、厄年というのは、この同一性エネルギーから差異エネルギーへの変換の時期を意味するように思えるのである。とまれ、人生のターニングポイントが、40歳前後にあるように思えるのである。ここで、枯渇する同一性に留まると、差異エネルギーを受容できずに、「狂気」になると思うのである。おそらく、健全な人はそれぞれ、差異エネルギー受容をなんらかの形で行うように思うが、できない人は人格障害をもつように思えるのである。また、心病だけでなく、身体の病気も生まれるように思える。)
 さて、自我の問題に戻ると、Media Pointによるエネルギー交替・変換が起こると、自我は差異エネルギーを受け入れるのが正道となるのであるが、これが実に難しいのである。何故なら、自我は同一性中心主義であり、差異を否定しているからである。つまり、差異を認めることは、自我否定に繋がるのである。【先にも触れたが、ユング心理学は、自我と差異(ユングは自己ないしは集合的無意識、普遍的無意識と呼んでいる)との結合を個性化・自己実現として捉えているのであるが、私はそれは不可能であり、二元論のまま留まると言ったのである。】
 Media Pointからの差異エネルギーの発出は、自我同一性の壁に衝突するだろう。自我はどうやってこれを受容するというのだろう。差異エネルギーは心身においては、身体ないしは内部・下部から発動するだろう。いわゆる無意識エネルギーである。この身体エネルギーを自我は取り入れなくてはならないのである。このためには、自我は、測深する意識を形成する必要があるのである。
 つまり、自我は単に知的意識だけではなく、身体的意識を形成する必要があるのである。この身体的意識が差異エネルギーを取り込む媒体となると言えよう。つまり、自我同一性意識の解体が必要なのである。解脱、身心脱落である。ここは実に霊妙なところで、記述が難しい。結局、それは意識の志向性を反転させることであると言えよう。それまで、同一性志向性であった意識を差異・他者への志向性へと転換させることである。自我においては、それは身体・内部・下部への意識の志向性をもつことである。フッサール現象学的還元やエポケーはこのことに通じるだろう。また、禅等の瞑想も同様であろう。自己認識方程式(+ i)*(-i)⇒+1では、⇒+1であったものから、左辺の感知へと進むことである。
 ということで、差異エネルギーの感知・受容とは、自我同一性意識の解体を伴うということである。(だから、ユング心理学は不成功に終わるのである。自我と自己との二元論のままなのである。個性化は起こらないのである。統合失調症のままである。)
 結局、自我から自己・個・差異への転換である。そして、そこから、同一性を包摂する高次元の自己(同一性と即非的差異の自己が生まれるのである。