祝賀新年:今年を占う:観る=観られる(テオーリア)の心を取り戻す

テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築


祝賀新年:今年を占う:観る=観られる(テオーリア)の心を取り戻す:神道/仏教的経済共同体社会へ向けて:ポスト・モダンの暗黒からトランス・モダンの啓光へ



たまたま、本棚に以下の書を見つけ、拾い読みして、興味深いので、さらにページをくくると、以前読んで傍線を引いた箇所があり、そこから、以下の箇所を引用した。
 以下に述べられていることは、最近私が述べた感覚・視覚の復興に通じる内容である。すなわち、心の視覚とは本来Media Pointの視覚であり、それが、同一性化して、現象視覚を生みだすのである。しかしながら、近代文化において、同一性中心主義、さらに唯物論によって、同一性化された視覚が中心化されて、Media Pointの本源の、差異(差異共振)の視覚が否定・排除・隠蔽・埋没されているのである。
 本源の視覚(テオーリア)が、同一性唯物視覚によって、隠蔽されているのである。この同一性唯物視覚によって、同一性欲望が喚起されて、諸欲望が蠢き、資本主義/物質主義世界を駆動させるのである。
 同一性唯物視覚とは、当然ながら、二項対立・差別・嫉妬的視覚であり、ルサンチマンの視覚(嫉視)であり、戦争・暴力・破壊・犯罪・狂気・混沌等をもたらす視覚である。いわば、悪魔・悪霊の視覚(邪視)である。
 著者の港千尋氏が懸念している今日の映像情報支配は、正に、同一性唯物視覚である。これが、マスコミ、とりわけ、テレビを支配しているのである。また、愚劣な漫画や女性雑誌を支配しているのである。さらには、当然ながら、新聞も支配していると言えよう。なぜなら、同一性唯物視覚とは、近代合理主義/近代的自我と一如(いちにょ)であるからである。
 ここで、広告代理店の問題が浮上すると言えよう。同一性中心主義という魔道に支配された悪魔悪霊洗脳情報機関である。そもそも、日本の貧困な広告・デザインの映像を見よ。明らかに、同一性唯物映像である。
 結局、本源的視覚、Media Pointのヴィジョン=テオーリアを取り戻さないといけないのである。それは、夢の映像と関係するのである。それは、アリステレスやプラトンの哲学と関係するのである。イデア・エイドスとは、正に、Media Pointの視覚(ヴィジョン)である。
 心の視覚を取り戻すこと、それは、心の差異共振社会を取り戻すことである。小泉日本破壊構造改革を乗り越えて、Media Pointの視覚の生活世界、差異共振共同体を構築していくことが、本年の年頭のテオーリアである。


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この言葉[〈観る〉(theoria)]は、二つの要素から成っている。すなわちthéa=観とholân=見るとからなっており、ただ単に見るのではなく、真に見る価値のある対象、すなわち英雄や神々を〈観る〉ことを意味する。この名詞テオーリアとそれに対応する動詞〈観ずる〉(theoreîn)は、ラテン語の〈見る〉videoに由来する〈観る〉visitareに翻訳可能だが、この語はまたtheorósと関係がある。テオーロスとは祝祭の使者、訪問者のことで、特に別の場所で開かれる祝祭に遣わされる使者は、テオーリアと呼ばれた。 ・・・・、古代ギリシアにおいて、〈観る〉ことが祝祭性と緊密な関係にあったことを示している。アリストテレスは、こした祝祭性とは独立して、テオーリアのなかに神的なるものを認めていた。観る経験のなかに現実とは別の、神的なものを認めること、すなわち人間が神性へ近づく道が〈観の生活〉bíos theoretikósなのである。以上の考察は、オリュンポスのアルペオオス河畔で、この言葉のなかにギリシア人の宗教的生活の中心を探り当てたカール・ケレーニイのよるものであるが、今世紀を代表するギリシア神話学者は次のように書いている【カール・ケレーニイ『神話と古代宗教』】。


 われわれがギリシア宗教の様式を、その内部を支配している経験という
 視点から特性付けようとすれば、それを〈観の宗教〉と呼んでもよいであろ
 う。


 神的な視力をもって〈観る〉ことは、神々のように〈知る〉ことであり、神々の思惟に至るまでの諸段階において、古代ギリシアの学問は、テオーリアに基づいて形成されていたのである。ギリシア語の「知る(エイデナイ)」eidénaiは観ることを意味している。ギリシア人にとって、観ることと知ることは切り離すことができないものだった。ギリシア人は、彼らが知っているものを、ひとつの形姿として、同時に見ていたのである。
・ ・・・・
ケレーニイがテオーリアに見たのは、能動的に観ることと、受動的に観られることが同一であるという位相だった。テオーレインということは、外界からの刺激が視神経を介して脳に到達するという意味ではない。世界を見つめるわたし=Iとしての眼=eyeでもない。客体と主体を分離するような、近代的視線を批判して、ギリシア神話を〈生〉(bíos)のなかに位置付けたケレーニイは、観ることが同時に観られることであるような位相を古代ギリシア人の心のなかにあった、独特の態度「アイドース」aidósとして示す。神々を前にした人間が〈観る〉とき、そこには「畏怖」があり、「羞恥」があるだろう。「アイドース」とはこのときの「羞恥」そして「畏怖」の現象である。
・ ・・・・
能動的に観ることと受動的に観ること、観る人間と観られる人間、観る世界と観られる世界とが統一される。ギリシアの宗教的経験の根本状況として、アイドースという現象のなかで観ることが透視することを意味し、肉体が精神を、自然が規範を意味することになる。(中略)ギリシア人は、開かれた、精神に溢れた眼で、自分を見ているひとつの世界を映し出す。それがゼウスやテミスの眼であり、すべての女神の眼であり、神話が物語っている古い神、新しき神の眼である。(ケレーニイ『神話と古代宗教』)


『洞窟へ 心とイメージのアルケオロジー港千尋 せりか書房 p. 216〜p. 220
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