左脳と右脳と自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1:Media Pointと心魂:超越

左脳と右脳と自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1:Media Pointと心魂:超越的感性=美


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1を脳の仮説に適用させると、左脳が+iで、右脳が-iに相当し、脳梁が両者の共振性に関係するのではないだろうか。
 ともあれ、左脳+iの自我同一性の狂気について、新たに考えたい。これは、(+i)^2=-1となっていると考えている。+iが他者である-iを否定して、自乗化しているのである。この否定様態であるが、これは、自己中心主義である。そして、この否定様態が自動化すると、狂気にふさわしくなると言えよう。つまり、他者-iをただただ否定するという自動性の発生である。この否定的衝動と同一性観念(自我意識)が結びついているのである。
 問題は、この否定自動化の発生はどういうものだろうか。これは、自我同一性形成において発生するということでいいだろう。この自我形成にともなう否定自動作用(否定衝動)であるが、これは、他者の差異を否定しているので、外界を正しく認識していないのである。つまり、パラノイアである。他者差異こそ、真理の起点であるが、それが欠けているので、自我同一性は妄想化するのである。
 そして、他者差異-i(右脳)は、自我同一性+i(左脳)に認識を迫るようになると言えよう。これはどういうことなのだろうか。
 これまでの考え方、すなわち、太極の思想で言えば、+iのエネルギー(陽エネルギー)が作用して、それが衰退して、今度は+iのエネルギー(陰エネルギー)が作用するということになる。
 この陰エネルギーが自我同一性+iに働きかけるのである。しかしながら、自我同一性は他者・差異-iの認識は不可能なのである。なぜなら、自我同一性+ iにとって、他者・差異は絶対否定・絶対矛盾であるからである。言い換えると、同一性観念知にとり、差異身体性は認識不可能である。
 しかしながら、理性をもつには、他者である差異身体性を認識する必要があるのである。不可能を可能にしなくてはならないのである。これが、人間に課せられている生の哲学的課題である。
 比喩的にいわば、地獄落ちする必要があるのである。自我同一性の知の死が必要である。そして、差異身体性-iを受容する必要があるのである。しかしながら、このとき、反動化が生じやすい。すなわち、(-i)^2=-1となる反動である。おそらく、必然的な反動のように思える。問題は、この差異身体の反動を乗り越えて、自我同一性+iと差異身体性-iを差異共振させることである。左脳と右脳との共振である。このとき、脳梁が重要になるであろう。
 とまれ、自我同一性と差異身体性の共振性を形成するとは、Media Pointの意識化と言えよう。もともと、存在するMedia Pointの意識化である。換言すると、Media Pointの知性化である。そして、これが、理性化でもあると考えられる。
 では、心や魂、あるいは、先に言及した美とはどういうことになるだろうか。意識化ないしは知性化されたMedia Pointは、心や魂と言えるように思えるのである。もっとも、それは、知と身体との調和点である。
 では、美はどうなるのか。美も同様であろう。心や魂において、とりわけ感じられる優れた感情であろう。差異調和・秩序(コスモス)的な感情・感覚である。これは、同一性知性と差異身体感覚性の調和であり、Media Pointの超越性をもっているので、感覚・即非・「霊性」である。それを感性と呼ぶのは、やや妥協的である。だから、より正確に言えば、超越的感性である。こらならば、美を正しく捉えることになるだろう。カントの『判断力批判』で言えば、崇高を美として捉えることになるだろう。そして、カントの言う美は、超越性を喪失した同一性化された美であり、それは、現象的美であり、正しく言えば、綺麗さである。理論的に言うと、現象的感性である。